HOME
Link
Sitemap
privacy Policy
古代
飛鳥・奈良時代
平安時代
鎌倉時代
室町時代
戦国時代
安土桃山時代
江戸時代
明治時代
大正
昭和時代
HOME>>大正時代>>第一次世界大戦

第一次世界大戦

1,914年から1,918年にかけて世界規模の大戦争が行われました。ヨーロッパが主戦場となり、世界の大多数の国が参戦した戦争です。第二次世界大戦が勃発するまでは、第一次世界大戦を大戦争・欧州大戦などと呼んでいました。

第一次世界大戦のきっかけ

世界を巻き込んだ大戦争のきっかけは、ある一つの暗殺事件から始まります。1,914年6月28日、オーストリア=ハンガリー帝国の国王継承者、フランツ・フェルディナント大公夫妻が、当時はオーストリア領だったサラエボを視察中、セルビア人の青年ガヴリロ・プリンツィプによって、妃ゾフィーが腹部に、次いで大公が首に銃弾を受け、暗殺されました。捕らえられた数人の実行犯かの自白から得られた情報は、武器はセルビア政府から支給されたものであるということでした。

オーストリア=ハンガリー帝国政府はセルビア政府を非難し、オーストリア最後通牒をつきつけました。この内容は、セルビアにとって受け付けがたい要求ばかりでした。オーストリア政府は、48時間以内に、無条件で全ての要求を受け入れなければ、宣戦布告するとの通告をします。セルビア政府は2点を除いて要求に受諾しましたが、無条件で全ての要求を受けることとしていたので、1,914年7月28日、オーストリアはセルビアに対して宣戦布告し、これがきっかけとなり、世界に飛び火して第一次世界大戦が勃発します。

このオーストリア最後通牒の内容を、『今までの国の状況を変更する、最も恐ろしい文書』イギリスの外務大臣エドワード・グレーは、評しています。この最後通牒は最初から受け入れ不可能な内容で、オーストリアがセルビアに攻撃を仕掛ける口実であったと考えられています。

第一次世界大戦勃発

ロシア政府はオーストリアのセルビアへの宣戦布告に対して、軍部は戦争準備を主張し、ロシア皇帝に圧力をかけました。ドイツ皇帝とロシア皇帝の交渉は決裂し、ロシア側は部分動員では手遅れになるとみて、総動員令を布告しました。ドイツは動員解除を要求してきましたが、解除した場合、再び短期間で戦時体制に戻すのは難しいとして要求には応じませんでした。ドイツ政府は8月1日に総動員令を布告し、翌2日にはロシアに対し、3日にはフランスに対して宣戦布告します。フランスはこれに対し、対ドイツ戦を想定した戦争計画を発動します。イギリス政府はベルギーへのドイツ軍侵入を確認すると、8月4日、ドイツに対して宣戦布告、フランスへの英国遠征軍の派遣を決定します。カナダ、オーストラリア、ニュージーランドも参戦を表明しました。もちろん中立を宣言した国も数多くありました。

日本の対応

イギリスと日英同盟により同盟関係にあった日本は、イギリス政府からの要請で連合国側として、第一次世界大戦に参戦しました。当時の総理大臣、大隈重信は、兵派遣の要請をイギリスから受けると、天皇が臨席し、閣僚や元老らと共に開かれる御前会議も行わず、議会の承認や軍統帥部との折衝も行わず、要請から36時間後には緊急会議において参戦を決定してしまいました。こうした前例を無視することと、軍部を軽視した大隈重信の行動は、後に政府と軍部の関係の悪化を招くことになりました。参戦には慎重だったため、1週間の期限をもうけてドイツに最後通牒とも言える勧告をおこないましたが、ドイツは向かい等の姿勢を示したため、8月23日、日本はドイツに宣戦布告しました。

ヴェルサイユ条約

会戦直後はすぐに戦争が終わると思われていましたが、それまで中立を保っていたアメリカが途中から参戦し、戦争によって世界的に大きな損害も生じ、休戦協定を結ぶ国も出てきていました。最終的にドイツが連合国との休戦協定を結び、11月11日午前11時に軍事行動は停止され、ヴェルサイユ条約の締結によって、公式に第一次世界大戦が終結を迎えます。この第一次世界大戦での災厄のあまりの大きさに国際社会では戦争に対する嫌悪感が広がりました。平和協調が図られ、1,920年にはウィルソン大統領の提唱で、国際平和機構の国際連盟が人類史上初めて設立されました。このような努力もむなしく、原因と結果を巡る戦後処理の失敗や、世界恐慌による経済危機のため、共産主義が勢力を増してきて、イタリアではファシズム、ドイツではナチズムが勢いを増してきます。こうして第一次世界大戦からたった20年で、人類の歴史上最大規模の被害をもたらす世界大戦が、再び繰り広げられることになるのです。