日本の歴史の教科書に、写真入りで掲載されている金閣寺ですが、金閣寺という呼び方は通称で、正式名称は鹿苑寺(ろくおんじ)と言います。山号は北山(ほくざん)で、舎利殿を金閣、寺院全体を金閣寺と通称しています。旅行で訪れたことのある人も多いのではないでしょうか。
金閣寺は、鎌倉時代には西園寺という浄土宗の寺院でした。建立したのは西園寺公経で、代々、公経の子孫である西園寺家が所有していました。西園寺家は代々朝廷と鎌倉幕府の連絡役を務めていましたが、鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇を当主の西園寺公宗が西園寺に招待し、そこで命を奪おうとしているとの容疑をかけられ、処刑されてしまい、膨大な所領と資産は全て没収されてしまいます。そのため、修理や人の手が加えられることがなくなり、徐々に西園寺は荒れ果てて生きます。
1,397年、足利義満が西園寺を譲り受け(河内国の領地と交換した)、改築をして一新しました。当時は『北山荘』『北山第』などと呼ばれました。邸宅でありながら、その大きさは御所にも匹敵し、政治中枢の全てが集められました。義光は息子の義持に征夷大将軍の座を譲っていましたが、実権はそのまま自分が握っており、北山殿で政務を行っていました。やがて義光がこの世を去ると、義持は舎利殿を残して北山殿を取り壊します。この舎利殿を義光の遺言通り禅寺として、義光の法号『鹿苑院』から『鹿苑寺』と名前を変えました。
通称の金閣寺の由来になっている金閣は、正式には舎利殿といい、漆地に二層、三層部分に金箔を押した建物です。初層は『法水院』と言い、寝殿造り風です。宝冠釈迦如来像を中央に、法体の足利義満像を向って左に安置しています。二層は『潮音洞』と言い、武家造りになっており、岩屋観音像と四天王像を安置しています。三層は『究きょう頂』と言い、禅宗の仏殿風になっていて、仏舎利を安置しています。舎利殿の屋根はこけら葺きになっていて、鳳凰が飾られています。
鹿苑寺金閣は国宝に指定されていましたが、1,950年に学僧が火を放ち、建物は全て燃え落ちてしまいました。当時国宝に指定されていた室町幕府3代将軍・足利義満の木造、観音菩薩像、阿弥陀如来像、仏教経巻なども全て灰になってしまいました。逃亡していた学僧は裏山で発見され、捕らえられ、事情聴取に呼ばれた母親がその帰りに自らの命を絶つという痛ましい出来事もありました。この事件から5年後、数多くの浄財が集まり、金閣は再建されています。明治時代の大改修の際に、緻密な図面が残っていたために、忠実に再現できたとされています。ただ、焼け落ちる前の金閣は、金箔も剥がれ落ちてしまい、現在のように光り輝くものではなく、かなりみすぼらしいものだったようです。
通称の金閣寺の由来になっている金閣は、正式には舎利殿といい、漆地に二層、三層部分に金箔を押した建物です。初層は『法水院』と言い、寝殿造り風です。宝冠釈迦如来像を中央に、法体の足利義満像を向って左に安置しています。二層は『潮音洞』と言い、武家造りになっており、岩屋観音像と四天王像を安置しています。三層は『究きょう頂』と言い、禅宗の仏殿風になっていて、仏舎利を安置しています。舎利殿の屋根はこけら葺きになっていて、鳳凰が飾られています。
舎利殿は室町時代のもので、近年再建されたものですが、境内にあるその他の建造物の殆どが、江戸時代になってから再建された建物になります。
上の【金閣(舎利殿)】をご覧ください。
江戸時代に再建された建物です。金閣の後方にあり、見過ごされがちですが、これが本堂になります。室内の襖絵は、狩野派一門によるものです。
京都三松に数えられる松で、方丈の北側にあり、足利義満が自ら手植えしたと言われています。義満の盆栽から移されたもので、帆掛け舟の形に仕立てられています。
江戸中期に建てられたもので、障壁画は重要文化財に指定されています。現在は北山特有の湿気による傷みから守るために、本山・相国寺の承天閣美術館で保管されています。
足利義満が、お茶をたてるときの水に使ったと言われている泉です。
足利義満が、手を洗うために用いたと言われている泉です。
寄棟造り茅葺の茶室で、三畳敷きの席に勝手口、土間のある母屋と、切妻造り柿葺きの二畳敷きの鳳棲楼という上段の間が連なっています。現在の建物は明治に再建されたものです。夕日に映える金閣の眺めが素晴らしいことからこの名前がついています。
美しい逆さ金閣を映し出す鏡湖池を中心としている池泉回遊式庭園です。国の特別史跡と、特別名勝に指定されています。鏡湖池には葦原島、鶴島、亀島などの島や、畠山石、細川石、赤松石などの珍しい形をした、由緒のある大きな石がいくつも配置されています。