徳川家康は、264年もの長きに渡る江戸幕府を開いた人物で、歴代征夷大将軍は徳川の世襲制で受け継がれ、徳川幕府とも呼ばれています。日本の歴史を語る上で、はずすことのできない人物でもあります。ここでは江戸時代からの徳川家康について取り上げていきます。徳川家康は、江戸幕府の始祖として称えられ、日光東照宮をはじめ、東照大権現として全国に祀られています。
小牧・長久手の戦いでは豊臣秀吉を相手に互角の戦いをし、関が原の戦いでは相手への裏工作に長けていて、軍略家とも言える徳川家康ですが、戦国の世から一変、太平の世が264年も続く、江戸幕府を開いた人物です。徳川家康は、1,542年12月26日、三河国の土豪、松平氏第8代当主・松平広忠、於大(伝通院)の長男として岡崎城で生まれました。幼名は竹千代といいます。
2歳の頃、今川方の庇護を受けていた父・広忠は、水野家当主となった妻・於大の兄が織田信秀についたために、泣く泣く離縁しており、幼くして母と生き別れになっています。6歳になると父・広忠が織田信秀に対抗するために、駿河の今川義元に従うことになり、竹千代は今川義元の元に人質として駿河の府中に送られることになりました。しかし、途中で立ち寄った田原城で、義母の父、戸田康光の裏切りで、尾張の織田信秀の元に送られました。ここで2年過ごすことになりますが、織田信長との出会いの場にもなっています。その間に父・広忠がなくなっています。今川方に捕らえられている織田信秀の庶長子、織田信広との人質交換で、竹千代は駿河に移されます。今川義元のもとで元服し、義元の名前から一文字もらい、次郎三郎元信と名乗り、義元の姪、築山殿を妻に迎えました。その後、祖父・松平清康から一文字もらい、蔵人佐元康と名前を改めています。1,558年、織田方に寝返った寺部城主、鈴木日向守を松平重吉らと攻めたのが初陣となります。
小牧・長久手の戦いでは、徳川・織田連合軍として羽柴秀吉(豊臣秀吉)と戦いました。この戦いでは織田方が家康に断りもなく講和してしまい、戦う名目がなくなってしまうのですが、この戦いのあと、徳川方に味方していた勢力は、ことごとく秀吉が征伐していまいました。秀吉は家康に臣従依頼を出しますが、かたくなに拒み続けます。そこで秀吉は、正室を持たない家康に対して、自分の妹、朝日姫を正室として差し出しました。正室と言いながら、人質と同じようなもので、家康がこれを拒むと再び戦いになってしまうことから、家康は朝日姫を正室として迎えますが、それでも秀吉からの上洛依頼をきこうとしませんでした。今度は秀吉の生母・大政所まで人質として岡崎城に送ってきたために、さすがの家康も秀吉の臣下となることを決め、岡崎城を出発し、大坂の豊臣秀長邸に宿泊します。そこに秀吉が訪ねて来て、改めて臣従を求めたことによって、家康は完全に秀吉に屈することを決意します。翌日、大勢の大名が見守る中、秀吉に謁見して臣従することを表明しました。翌月、京都で正三位に叙任されます。大政所を秀吉の元に返し、その頃は浜松城を居城にしていた家康は、駿河城に居城を移しました。1,587年には秀吉の推薦により、従二位、権大納言に叙任されます。小田原征伐には豊臣軍の一員として出陣し、これによって秀吉が天下人となりました。
豊臣秀吉は、自分の後継者としての豊臣秀頼の体制をしっかりしたものにさせるためにも、五大老・五奉行の制度を定めました。その中の一人に家康も入っていましたが、これを定めた翌月、秀吉は『秀頼が成人するまで政事を家康に託す』と言う遺言を残して、秀吉はこの世を去ります。この遺言によって、家康による専横の兆しが見え始めます。それまで禁止されていた大名同士の今後などを行い、大名に嫁いだ娘は全て家康の養女とし、巧みに味方を増やしていきました。関が原の戦いによって、家康率いる東軍が勝利を勝ち取り、それまで天下人の一族であった豊臣氏を、摂津・河内・和泉65万石の一大名の身分に落として、徳川家康が実質上の天下人として君臨しました。
徳川家康は征夷大将軍として幕府を開くために、徳川家の系図の改姓も行いました。それまでは将軍になれるのは、清和源氏であるという慣例があったため、神道家の神龍院梵舜に命じて、徳川家の系図を源氏の源義家に通じるように整備されました。1,603年2月12日、後陽成天皇が勅使を家康の元に派遣し、六種八通の宣旨が下し、徳川家康を征夷大将軍、淳和、奨学両院別当、右大臣に任命しました。3月21日、二条城において正式な将軍宣下を受け、3月25日に宮中に参上して将軍拝賀の礼を述べました。朝廷から正式な将軍宣下が行われたのが3月27日ですので、この日を持って、264年続く江戸幕府が開かれたことになります。鎌倉幕府・室町幕府に次ぐ、日本の歴史上3番目にして、最後の幕府にもなります。
徳川家康が入城した頃の江戸城は、とても小さくて質素な城でした。1,603年3月には、江戸を将軍の城下町としてふさわしいものとするために、諸大名に市街地の造営を命じます。領地1,000石につき、人夫を1人出すようにと家康は命じたのですが、それ以上の人数を大名らが出したために、工事は急ピッチで進むことができました。神田山を崩して江戸湾を埋め立てて商業地を造り、崩した神田山の跡地には駿河から移ってきた旗本が住居を構えたことから、駿河台と呼ばれるようになります。(現在の千代田区)各大名には、江戸城の周辺(現在の丸の内、霞ヶ関)に土地を与えて屋敷を造らせました。1,606年には江戸城の本格的な造営もはじまり、9月には本丸、二の丸が大名らの建築によって完成しています。1,604年には、江戸湾の埋め立てでできた日本橋を基点にして、約4kmごとに一里塚を築き、東海道、中山道、奥州道などの街道が整えられていきました。