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松尾芭蕉

『奥の細道』で有名な松尾芭蕉は、江戸時代前期の俳諧師です。俳諧師と言うのは仮の姿で、異常な歩く速度の速さから、隠密としての任務を受けに行くための隠れ蓑として『奥の細道』の紀行に出たのではないかと言われています。

俳諧人・松尾芭蕉

松尾芭蕉

松雄芭蕉は、1,644年、現在の三重県伊賀市である、伊賀国で父・松尾与左衛門と、母・梅の次男として生まれました。松尾家は農業でしたが、『松尾』の苗字を持つ家柄で、幼名は金作、通称は藤七郎、忠右衛門、甚七郎といいました。名前は宗房と言います。松尾家は芭蕉の出生前後に柘植から赤坂に引越しをしているので、芭蕉が伊賀の柘植で生まれているのか赤坂で生まれているのか分かっていません。

俳諧を始めたきっかけ

芭蕉は若くして若くして伊賀国上野の大将軍の下で一軍を指揮する侍大将・藤堂七郎良清の跡取りである、2歳年上の主計良忠に使え、北村季吟に良忠と共に支持して俳諧の世界に足を踏み入れました。良忠の俳号は蝉吟と言います。1,666年に良忠がこの世を去ると、芭蕉も仕官を退きます。

1,672年に『貝おほひ』という処女句集を三重県伊賀市にある上の天満宮に奉納します。1,675年には江戸にくだり、飲料可能な水の供給設備の神田上水の工事に携わり、その後、1,678年には俳諧を教える宗匠となって、俳諧師として俳諧を職業とするようになりました。2年後、深川に草庵を造ったときに門弟から芭蕉を贈られ、その芭蕉の木を1株だけ植えると大いに茂ったので、その草庵は『芭蕉庵』と名づけられました。その翌秋、八百屋お七で有名な天和の大化で芭蕉庵を焼失し、甲斐国谷村藩の国家老・高山伝右衛門に招かれて放浪しながら移り住みます。(八百屋お七の話は井原西鶴の『好色五人女』に取り上げられています。)

旅人・松尾芭蕉

松尾芭蕉はしばしば旅に出て、その道中の紀行文、『野ざらし紀行』『鹿島紀行』『笈の小文』『更科紀行』などを残しています。有名な『奥の細道』は、1,689年に弟子の河合曾良を連れて江戸の深川を出発し、全工程2,400km、日数にして約半年間、東北や北陸を巡って、1,691年に江戸に帰るまでのことを綴った紀行文です。芭蕉の著書の中で最も有名な作品で、日本の古典における紀行作品でも、代表的存在になります。

芭蕉忍者説

俳諧師である松尾芭蕉に、忍者説があるのをご存知でしょうか。国語の教科書に掲載されている人物が、隠密者だったかもしれないというのです。芭蕉が忍者で有名な伊賀の生まれであること、古くから俳諧師は度々旅をして暮らしていたことから、隠密としての情報収集をしていたのではないかと言われています。当時の日本人としては、芭蕉の歩く早さは異常に早かったと言います。また、『奥の細道』に同行した曾良の旅日記、『曾良旅日記』と『奥の細道』では相違点が80にも及ぶことが分かっています。出発した日も、芭蕉は3月27日と綴っているにも関わらず、曾良は3月20日としています。この7日間のズレは何なのでしょうか。日程もおかしな点があり、黒羽で13泊、須賀川で7泊していますが、出発前に絶賛していた松島には1泊しかしておらず、しかも1句も読まずに通過しています。曾良の旅日記には、仙台藩の軍事要塞と言われていた瑞巌寺や、藩の商業港である石巻港を執拗に見物したとされています。これら数々のことを総合し、『奥の細道』は紀行文と見せかけた、仙台藩の内部を記した報告書ではないかとの見方もあります。

松尾芭蕉の最期

芭蕉の最期は旅の途中でした。大坂御堂筋の花屋仁左衛門の旅宿で、『旅に病んで夢は枯野をかけ廻る』という句を残し、この世を去りました。結果として、これが辞世の句になってしまいました。松尾芭蕉享年51歳。

生前に『(墓は)木曾殿の隣に』と言っていたことから、大津膳所の義仲寺の、木曾義仲(源義仲)の墓の隣に葬られました。