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出島

出島は日本の歴史で勉強しますので、独特の扇形をした出島を教科書で見たことのある人も多いでしょう。現在は出島の周辺も埋め立てられてしまい、その形は残っていませんが、少しずつ再現されていっています。

出島の概要

出島

出島は、江戸幕府が鎖国の一環として1,636年に築いた人工の島です。形は貿易の発展を願う末広がりの扇形をしています。面積は約1.3ヘクタールで、1,641年から1,859年の長い間、オランダ貿易が行われていました。作られたのは1,634年から2年間かけて行われ、江戸幕府が長崎の有力者に命じて、ポルトガル人を管理する目的で造らせました。長崎の十数人の有力者によって築造費が出資されましたが、土地使用料として、ポルトガル人が有力者に年間80貫を支払う形をとっていました。ポルトガル人から代わり、オランダ人が住むようになってからは現在の価値で約1億円に相当する、55貫に引き下げられています。平和な世の中になったのに対し、貿易の際の検疫が重視されたのでしょう。

ポルトガル人からオランダ人へ

1,639年、ポルトガル人は不況と植民地化を避けるために出島から追放され、1,641年にオランダ東インド会社の商館を平戸から移し、宗教活動や武装を制限してオランダ人を住まわせました。それ以後、オランダ人との交渉や監視を約200年間続けました。出島には、原則として公用以外の日本人の出入りが禁止され、医師やシーボルトなど、学者として信頼の厚かった者以外のオランダ人は、狭い出島からは出ることが許されませんでした。

ポルトガルの植民地状態になった長崎にも諏訪神社が勧請造営され、諏訪神社の祭礼、『長崎くんち』も始められるようになりました。長崎くんちとは、ポルトガルやオランダ、中国などの南蛮・紅毛文化の風合いを色濃く残した、『龍踊(じゃおどり)』『鯨の潮吹き』『太鼓山(コッコデッショ)』『阿蘭陀万才』など、独特でダイナミックな奉納踊が特色です。長崎くんちには、唐人らと共にオランダ人も祭礼を見るために設けられた桟敷席での観覧が許されていました。1,855年に日蘭和親条約が結ばれると、オランダ人が出島から出て長崎市街へ出入りすることが許可されました。翌年、出島開放令が出され、出島の日本人役人が取りやめになったため、出島の存在意義がなくなりました。オランダ商館では長崎幕府の管轄のもとで監獄生活のような不自由な生活をしていましたが、1,859年にオランダ商館は閉鎖されました。

鎖国

鎖国は、日本人の海外交通を江戸幕府が禁止し、外交・貿易を制限した政策です。こういった鎖国は、日本だけではなく、東アジア諸国においても見られた政策です。第2代将軍・徳川秀忠の時代に始まり、第3代将軍・徳川家光の時代に完成された制度です。1,616年、中国・明以外の船の入校を、長崎の平戸に限定します。1,623年、イギリスの平戸商館を閉鎖、翌年はスペインとの国交をやめ、来航も禁止されます。更には奉書船以外の渡航を禁じ、海外に5年以上滞在する日本人が日本に帰ることを禁止、やがて中国、オランダなどの船も長崎以外に入港できなくなりました。貿易と関係のないポルトガル人やその家族をマカオに追放し、残ったポルトガル人を出島に移します。マカオから通商再開を依頼するための船が来航したときには、幕府、使者61名が処刑されました。鎖国体制が完成すると、オランダ商館を出島に移します。

フランシスコ・ザビエルが日本に来て以来、スペイン人やポルトガル人の熱心な宣教師によって、戦国大名や江戸時代の藩主にもキリスト教徒が増えていきました。江戸幕府は、アジアからスペイン・ポルトガルの勢力を追い出そうとするイギリスやオランダの商人からこの情報を得て、鎖国の方針へと動いたと考えられています。こうして鎖国で閉ざされた日本では、出島が欧米に唯一開かれた場所でした。オランダ商館に医師としてきていたケンペルやツンベルク、シーボルトらは、西洋諸科学を日本に紹介して、反対に日本の文化や動植物をヨーロッパに研究して発表しました。徳川吉宗によって洋書が解禁されると、出島からの書物は医学や天文学歴などの研究に大変役立ちました。蘭学を通じて生まれた合理的思考と自由と平等の思想は、江戸幕末の日本に大いなる影響をもたらしました。

現在の出島

出島

1,904年に出島の周辺は湾岸改良工事で埋め立てられてしまい、かつて扇形をしていた出島は姿を変えています。かつて出島だったところを示すために、道路に出島のへりの部分を示す鋲が打たれています。長崎市が約170億円かけて1,996年から出島の復元事業をしていて、第1期工事では商館長次席が住んでいたヘトル部屋など5棟が2,000年までに完成しています。第2期工事として、オランダ船から物や人が搬出入した水門や、商館長宅のカピタン部屋、日本側の貿易事務や管理拠点だった乙名部屋、輸入品の砂糖や酒を納めた三番蔵、蘭学館など5棟が2006年までに復元されています。