大政奉還は、江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜が明治天皇に対し、政治権の返上をした翌日、勅許された政治事件です。長く続いた徳川家による政治と、武家政治である江戸幕府の終焉も意味しています。
1,864年、尊攘派志士を新撰組が捕縛した池田家騒動が起こりました。これをきっかけに、長州藩が京都を攻め、禁門の変と呼ばれる戦いを起こします。薩摩・会津・桑名藩によって長州藩は撤退し、降伏します。半年後、長州藩は米英仏蘭連合艦隊によって下関を攻撃され、外国との通商に反対し、外国を撃退して鎖国を貫くとする排外思想が衰退し、翌年には高杉晋作らが挙兵して、倒幕派が主導権を握ることになります。これにより、幕府は長州藩征伐に乗り出しますが、各地で幕府軍が敗戦する中、将軍・家茂までもがこの世を去ったため、休戦することになりました。この戦いに参加していなかった薩摩藩は、土佐藩の坂本竜馬の仲介で長州藩と同盟を結ぶことで、倒幕派に路線を変更します。
徳川慶喜が将軍に就任すると、それまで朝廷と幕府が協力して外敵を処理し、幕府の体制を立て直そうとした構想を持っていた孝明天皇が崩御します。明治天皇が即位すると、岩倉具視を中心とした倒幕派の暗躍が朝廷内で始まり、薩摩藩の西郷隆盛、大久保利通らと一緒に、天皇からの倒幕の密勅を手に入れ、倒幕に対する大義名分を得られました。この動きを察知した将軍・徳川慶喜は、幕府が政治を行う体制の限界を感じるようになっていきます。
1,867年、薩摩藩と長州藩に天皇から下された徳川幕府追討の証書を『討幕の密勅』と言います。薩摩藩には13日、長州藩には14日に下されました。『賊臣慶喜』の成敗を銘じる内容となっていましたが、天皇の直筆や、3名の署名の花押もなく、形式的にはおかしなものであったと言われています。
議会制度を導入し、合意を形成することで日本国家の意思を形成し、統一を図ろうとする政治思想を主張する土佐藩は、将軍の政権を返上することを政治路線として考えていました。そして1,867年10月3日、将軍・徳川慶喜に対して大政奉還の意見書を提出しました。当時の朝廷は政権を握っても運営する能力、体制が整っていなく、形式的に政権を返上しても、公家衆や諸藩を圧倒する力を持つ徳川家が天皇の下の新政府に加われば、実質的にこれまで同様、政権を握り続けられるのではないかとの考えもあり、将軍・慶喜は10月13日に上洛中の40藩の重臣を二条城に集め、大政奉還を発表しました。翌日14日、政権を天皇に返上するとの旨を明治天皇に提出すると、15日、明治天皇がこれを受け、大政奉還が成立しました。10月24日には征夷大将軍職辞職も朝廷に申し出ました。岩倉具視らがもくろんでいた討幕の名分もなくなってしまいました。
政権が朝廷に移っても、外交に関しては全くの術がなく、10月23日には、外交はこれまで通り幕府が行うとの通知が出されました。この時点で、まだ朝廷内の倒幕派の公家が主導権を握ることはできないでいました。明治天皇がまだ15歳と若かったため、慶喜の従兄弟、関白・二条斉敬が80年ぶりとなる摂生(主君の代わりに国事を行う)に就任し、朝廷内では二条家を含む五摂家が支配力を持っていて、徳川家支持に傾いていました。こうしたことから、大政奉還後の新政権でも徳川慶喜が政権を握ることは十分に予想されました。薩長や岩倉らが実権を握るためにはクーデターを起こし、親徳川派中心の摂生や関白、従来の役職をなくし、天皇親政の新しい体制を打ち立て、慶喜には旧幕府の領地の返上を求めて新政権の中心になることを阻止しなければいけませんでした。こうして王政復古へと向っていきます。
12月8日夜、岩倉は自邸に土佐・薩摩・安芸・尾張・越前各藩の重臣を集め、王政復古の断行を宣言し、協力を求めました。翌朝にかけて二条摂生の朝議が行われていましたが、これが旧体制最後の朝議になりました。翌日9日、朝議が終わって公家衆が退出すると、待ち構えていた薩長藩兵ら5つの藩の兵が京都御所の9門を固め、御所への立ち入りは厳しく藩兵が制限し、驚いている二条摂生や朝彦親王は御所に入れてもらえませんでした。そうした中、岩倉具視らが御所に入り、御所内の学問所において、明治天皇が王政復古の大号令を発令しました。内容は以下の通りです。
これは上級公家を排除して、徳川家が新政府の中心となる芽を摘み、天皇親政のもので岩倉ら、一部の公家と薩長が主導権を握る新政府を設立・宣言するものでした。
総裁:有栖川宮熾仁親王
議定:仁和寺宮嘉彰親王・山階宮晃親王・中山忠能・正親町参上実愛・中御門経之・島津慶勝・朝の茂勲・松平慶永・山内豊信
参与:岩倉具視・大原重徳・万里小路博房・橋本実梁
12月10日、将軍ではなくなった慶喜は、自分の呼称を『上様』とすると宣言し、江戸幕府の機構をそのまま生かして全国支配をし続ける意向をほのめかしました。徳川幕府による大政委任をせざるを得なくなった状況下の状態に危機感を抱いた薩摩藩に幕府軍が乗せられる形になり、鳥羽・伏見の戦いに突入します。崩壊寸前だった新政府だったにもかかわらず、この戦いで幕府軍が大敗し、朝敵としての汚名を受けましたが、朝廷が本当の意味で討幕するまで、まだ時間がかかりました。1,868年4月11日。江戸城総攻撃を官軍が中止する代わりに、旧江戸幕府の本拠地である江戸城を無血開城させ、幕府機構の解体に成功しました。こうして江戸城は明け渡され、200年以上続いた徳川家による江戸幕府が滅亡していったのです。日本の歴史の一つの幕が閉じました。