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徳川家康~大坂の陣

徳川家康が初代征夷大将軍になり、江戸幕府を開いて2年後、朝廷に三男の徳川秀忠への将軍宣下を行わせ、自らは将軍職を辞め、将軍職は徳川家が世襲していくことを世の中に示しました。家康は、それまで天下人であった秀吉の息子、豊臣秀頼に新しい将軍、徳川秀忠と対面するように言いますが、秀頼の妻・淀殿が激怒してこれを拒否します。家康が六男の松平忠輝を大坂城に派遣して事態を収拾しますが、これによって豊臣家の権威が大きく傷ついたことになりました。家康は将軍職を退いてもなお、大御所として実権を握り続け、秀忠と共に二元政治をとっていましたが、家康・秀忠の対立があったことも事実です。

大坂の陣

天下を取ったとはいえ、家康にとって豊臣家は最大の権威であり続けました。1,604年の正月、外様大名の多くは大坂城の秀頼のもとに新年の挨拶に訪れ、その年の秀吉の七回忌には、大名らが贈った200匹にもなる飾り馬がパレードを行い、民衆らは街頭にあふれて風流踊りをし、大変な賑わいになりました。こうして根強く残る秀吉人気に、家康は痛感するのです。1,614年、秀頼が秀吉を供養するために建てた方広寺の鐘が完成しました。これには『国家安康』という字が刻まれていましたが、これに対して徳川側が、『家康』という文字を引き裂いて、呪いをかけているとクレームをつけました。もちろん言いがかりです。これをきっかけに、徳川側は、豊臣家が浪人を集めて軍備を強化しているとして宣戦布告をします。

大坂冬の陣

真田幸村

1,614年11月19日。大坂冬の陣の戦闘が開始されました。豊臣方についたのは、真田幸村、後藤又兵衛基次、長宗我部盛親らの有力浪人が集まりましたが、期待されていた豊臣恩顧の大名は誰一人として参加しませんでした。領地を認めてくれるのは豊臣家ではなく、いまや徳川家なのです。木津川の戦いでは徳川軍が勝利することができましたが、今福の戦い・鴫野の戦いではかろうじて勝利することができましたが、続く博労淵の戦いではあっけなく勝利します。一番の激戦となった12月4日の大坂城南面に突き出した砦、真田丸の攻防戦では、真田幸村・大助親子の奮戦によって、徳川軍は大敗を喫してしまいました。

冬の陣・和議へ

徳川家康はこの大敗を気にすることなく、9日には新たな戦闘を開始しました。夜8時、夜中の0時、早朝4時に一斉に勝ち鬨をあげさせ、更に夜10時、夜中2時、早朝6時に大砲を放ち、城兵を脅すと共に、戦慣れしていない淀殿らを脅そうとしました。淀殿は落城の恐怖に怯え、19日に和睦を申し出て、家康もこれに了承、講和が結ばれることになりました。講和の条件は、城内の兵の命は助けること、秀頼と淀殿の責任は問わないこと、外濠を埋めて、大坂城の二の丸、三の丸を取り壊すことが決められました。しかし作業が始まると、徳川方は内堀まで一気に埋めてしまいます。本丸しか残っていない大坂城は、裸の城にさせられてしまいました。豊臣側は慌てて内堀を掘り返そうとしますが、これを徳川家康は『豊臣家が戦闘準備をしている』という大義名分にして、は大坂城の浪人全てを場外に追放すること、秀頼は大和国か伊勢国に移ることを命令します。もちろん豊臣側には受け入れがたい命令です。

大坂夏の陣

堀がなくなり、城に籠城することもできない豊臣軍は、1,615年4月26日、山と郡山城を襲い、大坂夏の陣の火蓋が切られました。徳川家康は5月5日に二条城を発ち、6日に道明寺附近で本格的な戦闘になります。兵力で勝てない豊臣軍は次々と勇将を失っていきますが、徳川軍の大軍であるがゆえの油断や連携の悪さ、真田幸村らの奮闘もあり、一時は家康の本陣の馬印が倒され、家康も自害しなければならない状況にまでなりましたが、大成を立て直すと、家康の本陣に3度も攻撃をしかけてきた真田幸村も討ち取られ、天守閣には火が放たれ、大坂城が落城しました。5月8日、豊臣方の重臣から、秀頼と淀殿の命を助けるようにとの願いも受け入れられず。側近と共に秀頼、淀殿は自害し、豊臣家が滅亡していきました。

徳川家康の最期

徳川家康

大坂の陣が終わると、家康は豊臣方の残党を処刑し、豊国廟(秀吉を祭っている場所)を取り壊してしまいます。自ら築き上げた徳川幕府安泰のためには、それまで気がかりだった豊臣家に関わるものを排除したかったのかもしれません。徳川家の武家政治が長く続くように、家康は様々な制度も整えました。1,615年6月13日、『一国一城令』を出し、領国内の城は、居城のみを残して他の城は破却するようにとの命令です。これによって400もの城が取り壊されたといいます。7月7日には13か条からなる『武家諸法度』を出し、文武奨励、遊楽の禁止、居城を修理する場合は幕府に届け出るなどと、新しい城を築城するのを禁止しています。7月17日には『禁中並びに公家諸法度』を公布、天皇は何をすべきか定め、公家の任免、昇任、服装にまで制限をもうけた統制を強めました。7月24日には『諸宗寺院法度』を出し、寺院に対する統制も強めました。これら数多くの法度は徳川秀忠が布告しましたが、実際は徳川家康の命で作成されたものです。こうして徳川安泰のベースを築いた家康は、1,616年1月、鷹狩りに出た先で倒れました。

自分の命を悟った家康は、4月1日に近臣を呼んで遺言を残します。『死後は久能山に納め、葬儀は江戸の増上寺で行うこと、位牌は三河国の大樹寺に置くこと、一周忌が済んだら日光山に小さなお堂を建て勧請(分霊を移して祀ること)せよ。関東八州の鎮守となろう。』と、言葉を残しています。1,616年4月17日、徳川家康は駿府城にて、75歳の生涯を閉じました。日本の歴史を作った人物が一人、この世を去ったのです。遺言通り家康は久能山に埋葬され、翌年4月8日、棺は日光山に納められ、17日には盛大な一周忌が行われました。朝廷からは『東照大権現』の神号も賜りました。

辞世の句 『嬉やと 再び覚めて 一眠り 浮世の夢は 暁の空』