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大塩平八郎

日本の歴史で習った記憶はあるけれど、何をした人だったのか…名前にインパクトがあっても、どうして歴史に名前を残しているのか分からない人もいるでしょう。大塩平八郎は、江戸時代後期の儒学者であり、大坂町奉行所の与力をしていました。その父もやはり与力をしており、初代から数えて平八郎で8代目になります。

奉行所時代

1,793年、大坂の裕福な旗本の家に平八郎は生まれました。号は中斎と言います。幼い頃に父母を失い、祖父母に育てられています。13歳の頃、東町奉行所に見習いとして出仕し、25歳で正式に与力になります。与力とは、現在で言う警察署長に相当するものです。翌年には現在で言う裁判官の吟味役になり、鋭い手腕を発揮していました。また、平八郎は20代になった頃から陽明学を学んでいて、その基本精神である『良いと知りながら実行しなければ本当の知識ではない』を仕事を通じて実行していきます。

腐敗していた奉行所

ある日、平八郎が担当していた事件の当事者から菓子折りが届きました。中はお菓子ではなく、小判が入っていました。賄賂・買収です。奉行所では、こうしたことが日常茶飯事に行われていて、自ら賄賂を要求する同僚が数多くいることに平八郎は驚きます。半ば公然に捜査に手心を加えることもされていて、奉行所は腐敗しきっていたのです。内部告発をすべく資料を集めていた平八郎は、西町奉行所にとんでもない与力がいることを知ります。恐喝や強盗、人殺しまで手下にやらせ、自分は遊郭で遊んで暮らしていて、与力の立場を利用して、捜査の邪魔をするとんでもない人物でした。平八郎は片っ端から摘発して、この与力は自ら命を絶ってしまいます。

25年の奉行所生活

腐りきっていた奉行所で、幕府の高級官僚の絡む不正の証拠を掴んだ平八郎は、幕府の中枢部から、余計なことはするなと圧力をかけられます。それでも悪に立ち向かって行くことができたのは、東町奉行所の高井実徳の後ろ盾があったからこそなのです。平八郎が37歳のとき、これら奉行所の不正行為に対しての採決が下されました。その結果は高級官僚の悪事はもみ消されていて、小悪党3名は遠島や改易処分になっただけで事件は片付けられてしまいました。これには平八郎も大きく失望しています。この処分1ヵ月後、それまで応援していた高井実徳が自任すると、与力として人望の厚かった平八郎も、養子の格之助に職を譲って25年に渡る奉行所生活に幕を閉じます。

天保の大飢饉

1,833年に始まり、1,837年にかけて最大なものになった飢饉で、江戸四大飢饉とも呼ばれています。各地で餓死者が多数出て、平八郎のいる大阪も同様に数多くの人が飢えで命を失っていました。米価のつり上げを狙った豪商による米の買占め、大阪の窮状を省みずに江戸城に米を廻送していた大阪町奉行の跡部良弼らの行為に胸を痛めていた平八郎は、豪商の米の買占めをやめさせることや、米蔵にある米を民衆に分け与えて欲しい旨を奉行所に要請しますが、全く聞き入れてもらえませんでした。平八郎は蔵書数万冊を売却して資金を作り、民衆の救済に当たっていましたが、奉行所はこうした行為すら、『売名行為』としか見ていませんでした。次々と命を落として行く民衆らに、何も手を差し伸べない奉行所や、米の買占めを行っている豪商に対して怒り心頭に達した平八郎は、家族に迷惑がかからぬよう離縁し、家財全てを売却し、遂に『大塩平八郎の乱』を起こすことになります。

大塩平八郎の乱

平八郎は飢饉の影響で行き倒れも多くでる情勢の中、力ずくで米蔵を開けさせる決心をし、家財を売却した資金で鉄砲や大砲を用意し、大坂城にあふれるほど米が備蓄されていた、米蔵をターゲットにします。子弟には軍事訓練を施し、門下生と農民らに参加を呼びかけました。同時に大阪町奉行所の不正や役人の汚職を訴える手紙を江戸幕閣に送りました。実行の日は、新任の堀利堅が東町奉行の跡部に挨拶に来る日に決め、この二人を爆薬を使って爆死させる計画を立てました。

決行の日

決行の日、早朝4時。門弟の与力2人が裏切って、計画を奉行所に密告しました。当直で別の門弟が奉行所におり、計画がばれたことを平八郎に急報します。平八郎は事態の急変に、すぐに蜂起しました。計画が早まったため、たった25名で与力の朝倉宅を砲撃します。大阪の町に大砲の音が鳴り響きます。すぐに大塩邸に火を放ちました。火の手が上がったら決起の合図としていたので、農民らが次々と集結し、豪商を襲撃するうちに300人になっていました。平八郎らは大坂城を目指しますが、その頃奉行側でも体制が整い、2,000人規模の幕府軍が出撃してきました。多勢に無勢、勝負になりません。平八郎一党は砲撃を浴びながら淡路町まで退き、夕方までには鎮圧されてしまいます。このときの火が大阪の町に燃え広がり、『大塩焼け』と呼ばれて、2万件が焼き尽くされました。

事件後

事件後、門下生らは執拗な捜査で皆捕らえられましたが、平八郎と養子の格之助は行方が分からないままでした。平八郎親子は40日間逃走します。これは江戸に訴えた書状がとらえられる前に届いてほしいとの願いからでした。その書状も関所で見つかり、破棄されていたのです。平八郎親子は、民家に潜伏していたところを包囲され、持っていた火薬を使って自ら爆死を選びました。享年44歳でした。

大塩平八郎の乱で処罰されたのは750名にもなり、重罪者とされたのは31人。そのうち6名が自害し、他殺されたのが2名、1名は病気で、17名は1ヶ月の間に獄中で命を落としています。仲間の名前を調べるために、すさまじい拷問がされたと見られます。刑の執行まで命があった者は、たった5人と言われています。この平八郎に共鳴した者らの一揆がしばらくの間全国で広がりました。この乱で焼け出された人も数多くいたにもかかわらず、誰も平八郎を責める者はおらず、『大塩様』と呼んで賞賛しました。