黒船は、大型の西洋式航洋船のことで、江戸時代末期にかけて日本に来航した船のことを指す歴史用語として使われています。多くは黒船と言えば、1,853年にアメリカ合衆国のマシュー・ペリーが率いるアメリカ海軍艦隊のことを言います。当時、欧米の船は船体をタールで黒く塗っていたために、こう呼ばれるようになりました。
黒船来航は、アメリカ合衆国海軍東インド艦隊が、江戸湾浦賀に来航した事件です。米大統領国書がマシュー・ペリー提督によって江戸幕府に渡され、日米和親条約締結に至りました。この事件から明治維新までを幕末と呼んでいます。
当時、アメリカは太平洋航路の確立を必要としていました。また、夜間も稼動していた工場などのランプの灯火として、マッコウクジラの油が必要で、捕鯨が盛んに行われており、太平洋での拠点を必要としていました。1,852年11月24日、ペリー司令長官兼遣日大使を乗せて、巡洋艦『ミシシッピー』を旗艦とする東インド艦隊がアジアへと向けて出向しました。航海途中で、アメリカの大統領がフィルモアからピアースに変っていて、琉球の占領もやむを得ないとするフィルモアから、侵略目的の武力行使を禁止したピアースになっていたのですが、船上のペリーにはその知らせは届いていませんでした。
1,852年、長崎奉行所にオランダ商館長のクルティウスが『別段風説書』を提出しました。内容は
これを受け、江戸幕府老中首座・安倍正弘は開眼防禦御用掛に意見を聞いたところ、疑わしいので長崎奉行に聞くべきではないかと答え、これに対し長崎奉行は、オランダ人は信用できないと回答しました。このため幕府は彦根藩の兵を増やした程度にとどまります。
1,853年6月、予定よりも3ヶ月遅れて、浦賀沖にペリーの船が現れ、黒塗りの船体の煙突からは煙がもうもうと上がっていて、日本人は『黒船』と呼びました。巡洋艦四隻からなり、臨戦態勢をとりながら勝手に江戸湾の測量を行い始めました。更に湾内で数十発の空砲を発射し、江戸は大混乱となりますが、空砲と分かると見物人が大勢詰め掛けました。江戸幕府は浦賀奉行所与力の中島三郎助を船上に派遣し、ペリーの目的が将軍にアメリカ合衆国大統領親書を渡すことが目的と把握しますが、ペリーが親書を渡す相手として、与力では身分が低すぎると拒否しました。親書は最高位の役人でなければ渡すことはできないとしたのです。そうでなければ兵を率いて上陸し、将軍に直接手渡しすると脅しをかけました。第12代将軍・徳川家慶は病に伏せていて、このような重大な決定をできる状態ではありませんでした。阿部正弘はペリーの上陸を許可し、浦賀奉行の戸田伊豆守と、井戸石見守がペリーと会見、開国を促す大統領親書、提督の信任状、覚書などを手渡しました。幕府は将軍が病に伏せていて、すぐには決定できないと、返答するのに1年の猶予を要求し、ペリーもこれを受け、1年後に再来航するとして江戸を離れました。
ペリーが日本から離れてわずか10日後に、将軍家慶がこの世を去ります。第13代将軍に家定が就きましたが、家定も病弱で政治を担えるような人物ではありませんでした。老中らにも名案は浮かばず、首座の阿部正弘は開国要求に頭を抱えていました。そこで阿部正弘は、江戸幕府始まって以来始めて、大名や旗本、庶民にいたるまで外交についての意見を聞こうとしました。これまで発言権のなかった外様大名らは喜びましたが、これと言った良い案は出ませんでした。これは幕府だけではなく、合議制で物事を決めようと言う考えだけが広がり、幕府の権威を下げるものでしかありませんでした。
1,854年、1回目の来航からわずか半年で、再びペリーが浦賀に来航しました。香港で家慶の死を知ったペリーは、国政の混乱の隙を突こうとあえて半年で決断を迫ったのです。もちろん幕府は大いに慌てました。
1ヶ月に渡る協議の末、幕府はアメリカの開国要求を受け入れるとの返答を出しました。500名の兵と伴ってペリーが武蔵国神奈川の横浜村に上陸し、12か条の日米和親条約を結んで日米の合意は正式なものになりました。こうして徳川家光から200年以上続いた鎖国が、ペリーによって解かれる事になりました。その後、交渉の場を伊豆国下田の了仙寺に移し、日米和親条約の細則を定めた13か条の下田条約を交わすことになります。