聖徳太子は、飛鳥時代の皇族と言われる人物です。飛鳥時代は日本の歴史の中で、古墳時代の終末期と重なっていて、3世紀の終わりから8世紀にかけて、飛鳥に都が置かれていた時代です。聖徳太子がいた時代には、飛鳥文化が花開いたときでもありました。
聖徳太子は、没した後に呼ばれるようになった名前で、本名は『厩戸(うまやど)』と言います。厩戸の前で生まれたからという伝説がありますが、厩戸という地名があり、そこから命名されたとする説の方が有力です。別名、豊聡耳(とよとみみ)、上宮王(かみつみやおう)とも呼ばれ、古事記では上宮之厩戸豊聡耳命とされています。用明天皇の第二皇子として生まれました。曽我氏とは血縁関係になります。仏教を巡り、蘇我氏と物部氏の争いが激しくなる中、聖徳太子は蘇我氏と共に戦い、勝利を納めます。用明天皇が崩御すると、蘇我氏と守屋が皇位を巡って戦いになり、聖徳太子も蘇我氏の軍に加わって戦います。この戦いによって、大豪族だった物部氏は没落してしまいます。やがて初の女帝、推古天皇が即位すると、聖徳太子も皇太子となり、推古天皇元年には摂生として、大臣であった蘇我氏と天皇を補佐していきます。
聖徳太子は、歴史に残る数々のことを行っています。摂生となった推古元年、蘇我氏が物部氏と戦う際に勝利祈願をし、勝利した際には寺院を建立して祀るとの誓願通り、摂津国難波に、四天王寺を建立しました。推古天皇9年に、奈良県生駒郡斑鳩町に斑鳩宮を造営し、4年後に移り住んでいます。斑鳩宮の西には法隆寺が作られました。推古11年、氏姓制や身分に関わらず、才能重視で人材を登用し、天皇の中央政権を強める目的で、冠位十二階を定め、翌年、十七条憲法も定めました。これは、豪族に対して、臣下としての心構えを示しているもので、天皇に従って、仏法を敬うようにとするものです。天皇を中心とする、国家体制作りの基礎を築きます。聖徳太子は、当時の大豪族でもあり、血縁でもある蘇我馬子と共に政治を行い、遣隋使を派遣して隋の文化や制度を輸入しました。
聖徳太子には、いくつかの伝説が残っています。様々な脚色がされていることもあるでしょう。聖徳太子が建てたとされる寺院も、後世になって、縁起をかついで創作されたものもあると思われています。
聖徳太子は、一度に何人もの話を同時に聞き、理解することができたと言われています。人々の請願を聞いていた太子は、10人以上もの人が一度に発した言葉を理解し、的確な答えを返したと言われています。『聖徳太子伝暦』によると、11歳のときには、36人の話を一度に聞くことができたと記されています。実際のところは、順番に話を聞いて、それぞれに的確な返事をしたものだと思われ、記憶力が優れていたと考えられます。
『兼知未然(兼ねて未然を知ろしめす、兼ねて未だ然らざるを知ろしめす)』とあり、後の世で、聖徳太子による『未来記』の存在が噂されるようになります。『平家物語』の八巻にも、『聖徳太子の未来記にも、けふ(今日)のことこそゆかしけれ』とあり、『太閤記』では、楠木正成が、この『未来記』を実際に見たと記されています。ただ、過去に未来記が実在した証拠がないために、真実は闇の中です。
南嶽慧思とは、天台宗開祖の天台智ギの師であり、聖徳太子はその生まれ変わりだと言われていて、この説は『南嶽慧思後身説』として中国でも有名で、鑑真(がんじん・奈良時代の帰化僧。律宗の開祖)が渡日する動機になったとも言われています。
推古天皇30年、斑鳩宮で倒れた聖徳太子は、とても信頼していた妃、『膳大朗女(膳部菩岐々美朗女・かしわでのほききみのいらつめ)』に、『死後は共に埋葬されよう』と言ったと伝えられています。聖徳太子の妃は2月21日に没し、後を追うように、翌日22日、聖徳太子もこの世を後にします。大阪府にある叡福寺には、聖徳太子の墓だと宮内庁が比定する、『叡福寺北古墳』があります。ここに、聖徳太子と膳大朗女が共に埋葬されていると言われていますが、太子信仰が盛んになってから定められたのではないかとも言われ、信憑性が定かではありません。