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蘇我氏と物部氏

蘇我氏(そがのうじ)は古墳時代から飛鳥時代に勢力を持っていて、代々大臣(おおおみ)を出していた有力氏族です。古事記、日本書紀で神功皇后の三韓征伐で活躍したとされる、竹内宿禰を祖としている一族ですが、詳しい活動が分かってくるのは、6世紀以降の蘇我稲目からになります。それ以前の活躍は、史料が乏しく、あまり分かっていません。平安時代に嵯峨天皇によって造られた古代氏族名鑑である『新撰姓氏録』では、蘇我氏を歴代皇族から分かれた氏族であるとしています。ここでは、聖徳太子と一緒に、政権に大きく関わった、蘇我馬子について紹介していきましょう。一方、物部氏(もののべうじ)ですが、天皇家よりも以前に天孫降臨したといわれる、ニギハヤヒミコトが祖先と伝えられる氏族です。元は、兵器の製造や管理を管掌していましたが、徐々に有力軍事勢力へと成長しました。物部尾輿と蘇我稲目の間で起こった争いは、子の物部守屋と蘇我馬子へと引き継がれていきます。日本の歴史上、因縁の対決が、守屋と馬子の代で決着がつきます。

蘇我氏の全盛期

蘇我馬子は飛鳥時代の政治家であり、貴族でもありました。邸宅の池に島を浮かべていたことから、嶋大臣とも呼ばれていました。敏達天皇のときに大臣になり、用明、崇峻、推古と、4代に渡って天皇に使え、54年もの長い間権勢をふるい、蘇我氏の前世時代を築きます。子供は蘇我善徳、蘇我倉麻呂、蘇我蝦夷がおり、娘は崇峻天皇妃の河上娘、田村皇子の法提郎女、聖徳太子妃の刀自古郎女などがおり、孫には蘇我入鹿などがおります。どれも日本の歴史で習って、聞き覚えのある名前ばかりです。

蘇我馬子と物部守屋

蘇我稲目の息子として生まれ、敏達天皇が即位すると同時に大臣になります。585年、馬子は病に倒れます。占い師に占わせたところ、父である稲目の頃に、仏像を破棄した祟りであると言われます。馬子は敏達から仏法を祀る許可をもらい、祟りに対して鎮まるように祈願します。ところが、ときを同じくして疫病がはやり、多くの人が命を落としました。仏教に反対する物部守屋と中臣勝海が、蕃神を信奉したせいで疫病が起きたと敏達に奏上したために、馬子は仏法をやめるように詔されてしまいます。寺に向った守屋は、仏殿を壊し、仏像を海に投げ捨ててしまいます。さらに馬子や仏教信者を罵り、馬子が敬っていた3人の尼僧を差し出すように命じます。守屋は尼僧を全裸にして縛り上げ、尻を鞭打ちにしました。けれど疫病は治まらず、敏達天皇も守屋も病気になってしまいます。周囲の人々は、『仏像を焼いた罪だ』『罰が当たった』と噂しました。病気が治らない馬子は、再び仏法を祀る許可を求め、馬子に対してのみ、許可されました。3人の尼僧を返してもらった馬子は、新たに寺を建立して仏像を迎え、供養しました。

物部守屋の最期

ほどなくして敏達天皇が崩御します。棺を埋葬のときまで安置しておく仮の御殿で、馬子と守屋は互いに罵倒しあいます。新しい天皇には、馬子の甥にあたる用明が即位しますが、用明の異母弟の穴穂部皇子は自分が即位したかったので、不満を抱いていました。そこで守屋と手を組んで、敏達の寵臣であった、三輪逆の命を奪わせます。即位から2年、用明は病に倒れ、仏法を信仰したいと群臣に詔りました。もちろん守屋と中臣勝海は大反対しましたが、仏教信者である馬子は、詔を奉ずべきとして、穴穂部皇子に豊国法師を連れてくるように命じました。守屋は怒ってしまいますが、群臣の殆どが馬子の味方だと知り、河内国へと退きます。やがて用明が崩御すると、守屋は思惑通り、穴穂部皇子を皇位につけようと目論見ます。しかし、馬子が先手を打ち、敏達の皇后を奉じ、穴穂部皇子をなきものにしました。馬子は群臣に詔り、守屋を根絶やしにすることを決意します。諸皇子や諸豪族の大群を集め、河内国渋川群の守屋を攻めますが、元々軍事氏族だった物部氏の兵士は飛びぬけて強く、稲城を築いてかたくなに抵抗し、蘇我氏の軍を3度に渡って撃退しました。

聖徳太子と蘇我氏の勝利祈願

強い抵抗を見せる物部氏勢に手を焼いた蘇我氏と聖徳太子(厩戸皇子)。聖徳太子は四天王像を彫って、この戦いに勝利させてくれたら、寺院を建てて祀ること、また、仏法を広めていくと勝利祈願しました。また、馬子も塔を建て、戦いへの勝利祈願をして、仏法の教えを広めることを誓います。こうして蘇我氏の軍は奮い立ち、積極的に物部軍に攻撃を仕掛け、遂には守屋の命を討ち取ることに成功し、物部氏の長い歴史に膜を閉じることになったのです。

奈良・飛鳥時代