大化の改新は、7世紀の中ごろに行われた政治改革です。それまで政権を4代に渡って握っていた蘇我氏が倒され、豪族中心の政治から、天皇中心の政治へと移り変わっていきます。また、最初の年号が定められたことでも知られています。これまでの蘇我氏による好き勝手な振る舞いに、聖徳太子は様々な制度や秩序でそれを抑えようとしましたが、次の世代になると周囲は猶予など与えず、実力行使に出てしまいます。大和朝廷は、蘇我氏を打倒することにしたのです。日本の歴史の中でも、政治に関わる大きな変換のときと言えます。
蘇我馬子なきあと、蝦夷と入鹿父子は、政治を思いのままにしていました。蝦夷は天皇の許可もなく、勝手に入鹿に対して紫冠を与えるなど、好き放題のことをしていました。すでに推古天皇はなく、舒明天皇から皇極天皇になっていましたが、皇太子はまだ決まっていませんでした。蘇我氏はこれを政治に利用すべく、蝦夷の妹を母に持つ、古人大兄皇子(蝦夷からすると甥)を皇太子に据えようと密かに計画を立てます。そうすることによって、蘇我氏の権力が益々強くなるからです。しかし、皇極天皇の子、中大兄皇子や聖徳太子の子、山背大兄王などがおり、蘇我氏にとっては邪魔な存在でした。入鹿の手のものによって、山背大兄王の命が奪われ、聖徳太子の血統が、これによって滅んでしまいました。入鹿は甘橿丘に、飛鳥宮(天皇の住居)を見下ろすように大邸宅を造り、蘇我氏の暴政の極みとなります。
皇太子候補であった中大兄皇子は、自分に曽我氏からの手が及ぶことを警戒し、蘇我氏を打倒する機会をうかがっていました。そんな中、蘇我氏の横暴な政治に憤りを感じていた中臣鎌足(なかとみのかまたり・後の藤原鎌足)が中大兄皇子に近づきます。蹴鞠の会のとき、皇子は靴を飛ばしてしまい、拾ってくれたのが鎌足で、それをきっかけにして二人は急接近し、共に学問僧で隋から戻っていた南淵請安の門下に学び、新しい国家の体制を研究しながら、蘇我氏打倒の構想を練ることになります。蘇我一族では2番目の有力者で蝦夷、入鹿に批判的な、入鹿の従兄弟にあたる、蘇我倉山田石川麻呂の娘を中大兄皇子にと継がせ、関係を深くしました。賛同者は徐々に増え、計画を練り、あとは決行するだけとなりました。
作戦は、高句麗、百済、新羅の三韓の使者が、天皇に対して贈り物を捧げる儀式のときに入鹿を倒すことにしました。蘇我倉山田石川麻呂が使者の書を読み上げるのを実行の合図としました。天皇の前には古人大兄皇子、蘇我入鹿、蘇我倉山田石川麻呂の3人が進み出ます。離れたところに中大兄皇子が長槍、中臣鎌足は弓矢、更に2人の刺客が隠れていました。使者の書が読まれだしたら刺客が入鹿を切りつけ、皇子と鎌足が介助する手はずでした。しかし、使者の書を読み始めても入鹿を恐れ、刺客の足がすくんで飛び出せなくなっていました。石川麻呂は計画通りことが進まないことに焦りを覚え、声も体も震えだしてしまいます。そんな石川麻呂に不審を抱いた入鹿に、中大兄皇子が飛び出して頭から肩にかけて切りつけます。続いて刺客が足を切りつけ、鎌足が弓を構えました。『私にどんな罪があるというのだ!』と叫ぶ入鹿に、『皇子の命をとり、天皇の力を衰えさせようとしている』と、中大兄皇子が答え、目の前で一部始終を見ていた皇子の母、皇極天皇が無言で奥に立ち去ったところに刺客が更に切りつけ、遂に入鹿は息絶えてしまいます。入鹿はそのまま飛鳥宮の外に放り出されました。事態を知った父蝦夷は、甘橿丘の邸宅に立てこもりますが、蝦夷についていた兵が中大兄皇子の説得に応じて武装解除し、蝦夷は孤立します。蝦夷も覚悟を決めざるを得ず、自ら邸宅に火を放ち、自害するのです。こうして政治の蘇我体制は終止符を打ち、蘇我氏本宗家滅亡となりました。
蘇我政権壊滅の翌日、皇極天皇は退位して上皇となり、その弟、孝徳が即位して新政権が発足します。皇太子には中大兄皇子、新しい役職、内臣に中臣鎌足、左大臣に安倍内麻呂、右大臣に蘇我倉山田石川麻呂、政治顧問にあたる国博士にはミン、高向玄理が就任、元号を『大化』と制定しました。更に、各国を治めるために地方へ役人を派遣する制度、国司を東国に任命し、古人大兄皇子を討ち、蘇我氏にゆかりのある人物を全て排除しました。こうして飛鳥宮には政争はなくなり、心機一転、政治を全く新しいものにするために、都を摂津の難波長柄豊碕宮へと移します。
646年正月には、改新の詔が発布されます。全部で4か条あり、現代語に訳したものを以下に紹介します。