平城京は、奈良県にあった都のことで、当時の日本の首都になります。唐の長安をモデルに造られたと言われています。平城宮は平城京の大内裏で、天皇の住居である内裏と、儀式を行う朝堂院、役人が執務を行う官ガから成り立っています。日本の歴史の授業の中で、何年に造られたのかなど、一生懸命勉強しませんでしたか?必ず歴史の教科書に出てくるものの中の一つです。
694年から710年まで、奈良県橿原市に置かれていた藤原京から707年に平城京への遷都が始まりました。708年には遷都の詔が出されて710年に遷都するのですが、内裏と大極殿、官舎が整備されただけのものだったと考えられています。784年に長岡京に遷都するまでの間、段階的に寺院や邸宅が造られたと考えられます。740年に恭仁京に遷都しますが、5年後、再び平城京に遷都されます、それから39年間、平城京を都としていました。長岡京に遷都したあとは、南都と呼ばれていました。2,010年には遷都から1,300年を迎え、様々な記念事業が催されます。
平城京は長方形で、南北に長くなっています。中央には朱雀大路が通り、そこから右京、左京に分かれていました。左京側の傾斜地には、外京が設けられました。東西軸に一条から九条大路を、南北軸には朱雀大路、左京一坊から四坊、右京一坊から4坊の大通りが作られた条坊制を利用した都市です。大通りから大通りへの間隔は532mあり、それらに囲まれた坊の部分は、掘りや塀などによって区切り、そこから東西南北にさらに3つの道で区切り、町を形造りました。
市街地の宅地の広さは、位階によって決められていました。土地は原則として天皇が与えたもので、高級貴族が4町を占め、2町、1町、1/2町、1/4町、1/8町、1/16町、1/32町が宅地として与えられました。平城京の市外区域は、左京側に、三坊分の区画が東四坊大路から東に出ている形になっている、外京と呼ぶ部分があります。右京には二町分が北に出ていて、北辺坊と呼びます。
平城京に置かれた主な建造物は、平城京が造られたときから朱雀大路の北端にあり、そこに朱雀門が造られました。平城宮の中心的建造物だった大極殿は、740年の恭仁京に一時遷都したときに取り壊され、再び平城京に遷都されたときに、元の位置の東側に再建されました。朱雀大路の南端に羅城門がありました。寺院は平城京の四大寺と呼ばれる大安寺、薬師寺、興福寺、元興寺をはじめ、数多くあります。これらは順次、藤原京から移転されたものです。東京極大路に接している京域の東側に東大寺、西大寺は反対側の右京の北側にあり、法隆寺を加えて、南都七大寺と呼ばれます。
平城京の大内裏である平城宮は約120haを占めていました。平安京に遷都のあと、放置され、やがて農地になってしまいました。明治に入り、建築史家の関野貞氏が、田んぼの中の小高い芝の生えた部分が、恭仁京から遷都後に再建された大極殿の基壇であることを発見し、平城宮跡として特別史跡に指定されることになります。現在は朱雀門、宮内省地区、東院庭園地区の復元が完了していて、その他、2,010年の完成を目処に、大極殿の復元がされています。当時のものは何一つ残っていないのですが、唯一、国宝に指定されている唐招提寺の講堂が、平城宮朝堂院の中の建造物の一つである、東朝集殿を移築したものであり、鎌倉時代の様式で、切妻屋根が入母屋になったりと改造されている部分もありますが、これだけが平城宮の建築遺構として、大変貴重なものになります。