戦国時代には、日本の歴史に名を残す武将が、数多く生まれています。独眼竜政宗と呼ばれる、伊達政宗もその一人です。大河ドラマでも取り上げられていますし、歴史の教科書にも掲載されていますので、ご存知の方も多いでしょう。
伊達政宗は後の陸前国となる、奥州の戦国大名で、陸奥仙台藩の初代藩主でもあります。本姓は藤原氏で、家系は伊達朝宗を祖とする伊達氏です。幼名は梵天丸、宇は藤次郎。
室町時代の当主、大膳大夫政宗にあやかった名前のため、区別のために藤次郎政宗と呼ばれることもあります。
独眼竜と言われるように、政宗は片目が不自由でした。1,567年に米沢城に生まれ、1,571年、8歳のときに天然痘にかかり、右目の視力を失ってしまいます。母親には姿が醜いと疎まれ、弟小次郎だけが母親の愛情を独り占めしていたと言われています。政宗の将来を心配した父・輝宗が、1,572年に臨済宗の虎哉宗乙禅師を招き、政宗に対して厳しい教育がされ、仏教や漢学を学びました。1,575年には、片倉景綱が政宗の守り役となり、側近中の側近として、また、時には郡市としても政宗に生涯に渡り、忠誠を尽くしました。徳川家康や豊臣秀吉らに右目のことを聞かれ、『木から落ちて右目が飛び出してしまい、あまりにおいしそうだったので食べてしまった』と語っています。
1,577年に元服をし、2年後には仙道の大名の娘、愛姫を正室として迎えています。15歳で初陣を勝利で飾り、18歳で家督を相続し、伊達家17代を継承します。このとき父・輝宗はまだ41歳で、政宗は自分がまだ若いことを理由に辞退を申し出ますが、父は政宗の武将としての素質を見抜いていて辞退を受け入れず、家督を相続することとなります。小手森城主、大内定綱は、政宗に対抗しようとしますが、討伐の際は、反対勢力や自分を将来脅かす存在になりうる者を排除するということから、降状は一切認めないとして、小手森城に兵を進め、城の中にいる者は犬に至るまで、全て皆殺しにしてしまいます。奥州では豪族殆どが親戚縁者同士ということから、この戦術は前代未聞であり、近隣の戦国大名らは恐れおののきました。大内定綱と手を組んでいた畠山義継は、和議を申し出、政宗の父・輝宗のとりなしで5ヶ村を畠山領とすることで安堵します。このお礼にきていた義継が門まで見送りに出ていた輝宗を拉致してしまいます。輝宗の家臣が、義継の命をとるために、刀を手入れするとの会話を耳にし、安全に逃亡するために、輝宗を人質にとったものです。ところが、畠山一行を根絶やしにするために、先回りしていた伊達側が、鉄砲を使って父・輝宗もろとも一人残さず命をとってしまいます。この後、輝宗の弔い合戦を皮切りに、数々の戦を行い、着々と勝利を重ねていった政宗ですが、当時関白だった豊臣秀吉に、私戦禁止令を出されてしまいます。このとき、関東の北条氏も一緒に禁止令を受けています。けれど、政宗はこの命令を無視して、大崎合戦、摺上原の戦いなどを繰り広げます。
織田信長の統一事業を継承していた豊臣秀吉と伊達政宗は、関白となっていた秀吉傘下を摺上原の戦いで滅ぼしていたことから対立していました。秀吉からは、上洛して自分の命令に従うように書状が何度も届いていましたが、秀吉の攻撃対象である北条氏とは悪い関係ではなかったために、小田原に参戦するべきか否か、直前まで悩んでいました。結局は秀吉の兵の数に圧倒された政宗は秀吉に屈服します。
1,601年、政宗は仙台城や城下町、仙台の建設を始めて、自分が住む城も移します。世情が落ち着くと領国の開発に力を注ぎ、貞山堀と呼ばれる運河を整備したり、北上川水系の流域を整備して開拓をし、現在まで引き継がれている穀倉地帯としています。100万石を超える米の生産量も確保し、上方文化を積極的に導入しました。石巻港を設けたのも政宗です。1,636年、江戸において癌性腹膜炎、もしくは食道がんでこの世を去りました。『例え病であったとしても、親からいただいた片目を失ったのは不孝である』と政宗は考えており、政宗なき後に作られた像や絵画には、右目を少し小さくして、両目が入れられるようになりました。
辞世の句『曇りなき 心の月を 先だてて 浮世の闇を 照らしてぞ行く』