日本の歴史に残る戦い、桶狭間の戦いで勝ち鬨をあげた織田信長でしたが、将軍との対立など、苦しいときもやってきます。ここでは主に、将軍・足利義昭との関係を取り上げていきましょう。
1,565年、三好氏の有力者で三好三人衆と呼ばれた三次長逸、三好政康、岩成友道ら3人と、松永久秀が京都を中心に畿内で権力を誇っていました。大13代将軍足利義輝は、室町幕府の権力復活を目指して三好氏と対立を深めていましたが、義輝は三好氏によって暗殺されてしまい、義輝の弟・足利義栄を利用しようとして第14代将軍として擁立します。久秀は義輝の弟、足利義昭の命もとろうとしますが、細川藤考、和田惟政などの幕臣の支援を受けて、義昭は京都から脱出し、越前の朝倉義景のもとに身を寄せました。しかし、義景が三好氏追討の動きを見せず、次に美濃の織田信長に近づきました。信長は三好氏追討の要請を受ける一方で、甲斐の戦国大名、武田信玄と同盟を結ぶなどして、国内外を固めました。
信長は、第15代将軍に足利義昭を奉戴して上洛を始めます。これに抵抗を見せた南近江の戦国大名、六角氏嫡流後見役の六角定頼系の六角義賢と義治父子は、織田軍の猛攻により、観音寺城が落城します。これによって定頼系の六角氏は滅亡し、それ以降はゲリラ戦を展開していきます。信長が上洛すると、それまで中央政治を欲しいままにしていた三好義継と松永久秀らは、信長の実力を悟って臣下として従い、それ以外の三好三人衆についていた勢力は阿波に逃亡しました。池田勝正は抵抗を見せていましたが、結局は降伏することになります。こうして中央政権をほしいままにしてきた三好・松永政権は、突然の信長の上洛によってわずか半年で崩壊し、新たに足利義昭を将軍に擁立した織田政権が誕生したのです。この後も三好三人衆らが抵抗を試みますが、織田軍の前には勝利の軍旗をあげられず、信長は畿内における勢力を拡大していきます。
それまでは、義昭が信長に副将軍の位を勧めるなど、良い関係でいたものが、徐々にこの関係にも陰りが見え始めます。自らの天下統一を目指す信長と、上杉謙信や毛利元就らに上洛させ、幕府政治の再興を目指すという、考えの食い違いが見え始めます。1,569年、信長は将軍の権力を制限するために、『殿中御掟』と言うものを定め、義昭にもこれを認めさせます。その内容は9か条からなり、後に5か条が追加されますが、どれも信長を通さなければ何もできないとするものでした。義昭は将軍でありながら、実質的に信長の言いなりにならざるをえなくなり、信長の許可なしでは政治に影響力を持つことさえもできなくなってしまったのです。これによって、義昭と信長の対立は決定的なものとなります。1,570年、何度となく上洛を無視する越前の朝倉義景に対し、信長は討伐することとします。盟友の徳川家康の軍とともに越前に進軍します。朝倉方の諸城を織田・徳川軍は次々と攻略していきますが、北近江の盟友であった浅井長政に背後を疲れる形になりました。殿軍を務めた木下秀吉(豊臣秀吉)や徳川家康らの働きによって、なんとか京に逃れることができました。京に帰った信長に従うものは、10人ほどしかいなかったと言います。
従う者がほとんどいなくなった信長と義昭の対立は益々悪化し、遂に義昭は打倒信長として、御内書を諸国に発し、朝倉義景、浅井長政、武田信玄、毛利輝元、三好三人衆、さらには比叡山延暦寺、石山本願寺などの寺社勢力にまで呼びかけ、『信長包囲網』を結成しました。信長は苦戦の末、姉川の戦いで浅井・朝倉連合軍を破ります。野田城・福島城の戦いでは重臣の森可成と弟も織田信治をなくし、志賀の陣の最中には、弟、織田信興と重臣の坂井政尚らを失うことにより、進退に窮してしまいます。 信長は正親町天皇にことの次第を説明して勅命を仰ぎ、12月13日には、勅命によって浅井・朝倉軍と和睦することができました。その後も浅井・朝倉軍とは小競り合いが続いていましたが、朝倉軍の武将数人が降伏しました。甲斐の武田信玄は、義昭の出兵要請に答え、遂に上洛の軍を出します。武田軍の兵力は3万もあり、織田・徳川軍は抵抗を見せますが、東美濃のほとんどが武田の支配下に落ち、徳川領での一言坂の戦いでも大敗、三方原の戦いでも大敗し、信長は窮地に立たされます。1,573年には武田軍が三河に侵攻して野田城を攻略し、再び進退に困った信長は、正親町天皇から勅命を出してもらい、今度は義昭と和睦することになりました。それから7日後、武田信玄が病没し、武田軍は甲斐に引き上げています。
義昭との和睦から2年後、信長は権大納言、その3日後には右近衛大将に叙任します。11月28日には嫡男の織田信忠に織田家の家督と、美濃・尾張の領地を譲り、隠居しました。しかし、隠居と言うのも建前で、変わらず信長が織田家の政治と軍事を執行する立場にありました。1,579年に琵琶湖湖岸に築城していた安土城が完成し、信長は岐阜城を信忠にゆすると、自分は安土城に移します。信長は安土城を拠点に、天下統一に突き進んで行きます。
信長に誼を通じていた丹波の波多野秀治が叛旗を翻しました。石山本願寺も再挙兵するなどして、再び反信長の動きが強くなります。葦原の戦いで信長は大敗しますが、天王寺砦の戦いでは、自らが負傷しながらも、石山勢を撃破することができました。第一次木津川口の戦いでは大敗します。この頃、信長と上杉謙信の関係は悪化し、謙信が石山本願寺と和睦して信長との同盟を破棄します。反信長に同調した毛利輝元、石山本願寺、波多野秀治、紀州雑賀衆などが、謙信を盟主として決起します。手取川の戦いでは上杉軍の前に破れ、信長は謙信との衝突を避けるために安土に戻ります。この窮地をみた松永久秀が、謙信と連絡を取り合って信長を裏切り、挙兵します。久秀の裏切りを知った信長は、織田信忠を総大将とした大軍を向わせ、信貴山城の戦いで久秀を討ち取りました。謙信との戦いで不利になっていた信長は、毛利氏、石山本願寺の攻勢もあり、再び窮地に立たされてしまいます。ところが、信長に抵抗していた丹波亀山城の内藤定政が病気でこの世を去ると、信長はすぐに亀山城などの丹波の諸城を攻略しました。1,578年に上杉謙信が突然この世を去りますが、謙信には実子がなく、跡継ぎを決めずにいたので、後継者争いが起こりました。この隙に織田軍は上杉領の能登、加賀を攻略します。上杉謙信がいなくなったことにより、信長包囲網は完全に崩壊しました。