日本の歴史を覗いてみると、武田信玄と上杉謙信は因縁の仲だったのが分かります。武田信玄は戦国時代の武将で、甲斐の守護大名・戦国大名でした。『信玄』とは出家後の法名で、出家前は『晴信』と言います。
1,521年11月3日、甲斐国守護・武田信虎と正室・大井夫人の子としてこの世に生を受けます。父・信虎は甲斐統一を達成し、甲府の躑躅ヶ先館を本拠に、城下町が整備されて戦国大名としての地位が確立されていました。晴信の幼名は、『太郎』とも『勝千代』とも言われています。1,533年に武蔵国川越城城主・上杉朝興の娘が晴信の正室として迎えられています。政略結婚であると考えられていますが、夫婦の仲はとても良かったと言われていましたが、翌年、出産の際、大変難産で、母子共に残念な結果になりました。1,536年に元服すると、室町幕府第12代将軍足利義晴から『晴』の字を賜り、このときに名前を武田家の通字の『信』を使い、『晴信』と改めます。官位は従五位下・大膳大夫に叙位・任官され、継室(後妻)として左大臣・三条公頼の娘、三条夫人を迎えています。この婚姻に関しては、京都の公家と親密な関係にある、今川氏の斡旋だったと言われています。
武家の初陣は元服した直後に行われていることが多く、晴信の初陣は元服した年の11月、佐久郡海ノ口城主・平賀源心攻めであったとされています。晴信は父信虎の死なの侵攻に従軍していますが、嫡男として優遇されながらも、信虎との関係は険悪で、元旦祝いのときには弟の信繁にだけ盃をさし、晴信のことは無視したという逸話があるくらいです。親子の間に不穏な空気が流れる中、信濃侵攻から甲府に戻ると、晴信や重心の板垣信方らによる信虎の駿河追放が行われ、晴信が武田家19代の家督を継ぐことになります。
父信虎を追放した直後に、甲斐国に信濃国諏訪上原城主・諏訪頼重と信濃林城主、信濃国守護職・小笠原長時が攻めてきますが、晴信はこれを撃退し、反対に諏訪領内への侵攻を目論見ます。諏訪氏では、頼重と頼継の諏訪宗家を巡る争いが起きており、晴信はこれを利用して頼重を滅ぼし、諏訪を平定しました。これをきっかけに、長窪城主・大井貞隆、高遠城主・高遠頼継、福与城主・藤沢頼親を滅ぼします。小田井原の戦いで、上杉・笠原連合軍に圧勝した武田軍でしたが、討ち取った3,000人の首を城の周りに打ち立てることで城への脅しとしましたが、城兵は籠城をとかず、城兵の多くが討ち死にし、奉公人の男や女子供は人質や奴隷にされるなど、過酷な処分がくだりました。この事件で晴信への国民からの不信感がわき、信濃平定を遅らせることにもつながりました。
1,548年、信濃国北部に勢力を誇る村上義清と晴信は上田原で激突することになります。兵力で勝っているにも関わらず、武田軍は破れ、多くの将兵を失い、晴信自身も傷を負い、30日間湯村温泉で湯治をしました。これに便乗するように、小笠原長時が諏訪に侵攻してきますが、塩尻峠の戦いで晴信は圧勝します。1,550年に晴信は小笠原領に侵攻しますが、すでに小笠原長時が戦う気もなく、林城を捨てて村上義清のもとに逃走し、中信が武田の支配下に落ちました。勢いにのった晴信は、村上義清の支城の砥石城を攻めますが大敗し、1,000人以上の将兵を失うことになります。翌年、真田幸隆の策略によって砥石城が落城すると、徐々に武田軍が優勢になり、村上義清は城を捨てて越後の上杉謙信の下に逃れました。こうして東信も武田家の支配下になり、北信を除いて晴信は死なのをほぼ平定したことになり、後に信濃守護となります。
【上杉謙信】のページの『川中島の合戦』を参照してください。
川中島の合戦のあと、上野を侵攻したかった信玄ですが、上杉旧臣の長野業正が善戦していたので、思うような結果が得られませんでした。業正がこの世を去ると、後を継いだ長野業盛を激しく攻め立て、1,566年には箕輪城を落とすことに成功し、上野西部を制圧することができました。1,560年に桶狭間の戦いで、盟友・今川義元が織田信長に討たれると、今川家は衰退の兆しを見せます。信玄は今川氏との同盟を破棄して駿河に侵攻しようとするのを、吉本の女婿の嫡男、武田義信と守り役であった飯富虎昌の激しい反対に合います。このことから、信玄は飯富虎昌を切腹させ、義信の家督相続権をないものにし、自ら死を選ぶように追い込みました。こうして駿河への侵攻を、徳川家康と共同で開始することになります。今川軍も抵抗を見せますが、信玄軍の優勢によって今川氏と縁戚関係にあった北条氏康が大軍を率いて援軍に駆けつけます。にらみ合いが続く中、輸送部隊が襲われて物資不足になり、駿河制服を企てる家康が氏康と同盟を結んでしまい、信玄と敵対関係になってしまったため、不利を悟った信玄はひとまず甲斐に撤退します。5ヵ月後、再び2万の兵を引き連れて北条を叩くために出陣します。小田原城を包囲しますが、4日後には包囲をといています。武田軍の甲斐への帰路、北条軍と三増峠で衝突することになり、最初は北条氏が優勢でしたが、山形正景の高所からしかけた紀州が功を奏し、武田軍は窮地を脱しました。この頃から北条氏康は病を患っていたらしく、攻撃をするよりも、本国の防衛に力を入れるようになります。こうして駿河の守備が手薄となり、1,570年、武田軍は再びするがに侵攻し、完全に平定することに成功しました。
翌年には、織田信長の盟友、徳川家康を討つため、小山城、足助城、田峯城、野田城、二連木城を落として甲斐に帰還しました。10月に病で臥していた北条氏康が小田原でこの世を去ると、後を継いだ北条氏政は、氏康の『武田と和睦せよ』との遺言通り、上杉謙信との同盟を破棄し、人質として弟の氏忠、氏規を甲斐に差し出して、信玄と同盟を回復しました。
1,572年、将軍足利義昭は、信玄に信長征伐令を出します。このことから、信玄と信長との同盟は、事実上破棄されることとなります。信玄の率いる本隊は、徳川諸城を1日でいくつも落としました。他の武田方の軍も、ことごとく城をおとしていきましたが、信長は他の武田軍とにらみ合いを続けていたために、家康に3,000人の援軍を送るだけにとどまっています。家康は信玄の巧みな戦術に破れ、多くの兵を失い、馬で逃げる際、恐怖のあまり馬上で脱糞したとの逸話が残されています。
1,573年に三河を侵攻し、野田城を落とした頃から、信玄は度々喀血するようになり、持病が悪化して武田軍の新劇はいきなり停止してしまいます。長篠城で療養していましたが快方には向わず、4月には遂に甲斐に撤退することを決めます。4月12日、武田軍を甲斐に引き返す、三河街道上で享年53歳でこの世を去ります。この報を聞き、宿敵上杉謙信は愕然としたと言われています。遺言は、『自身の死を3年は秘匿すること』、勝頼には『信勝継承までの後見人として務め、越後の上杉謙信を頼ること』と言い残しました。勝頼は遺言通り、葬儀を行わずにその死を秘匿しています。
辞世の句『大ていは 地に任せて 肌骨好し 紅粉を塗らず 自ら風流』