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上杉謙信

上杉謙信も、日本の歴史の中に名を残す戦国武将の一人です。戦国時代の越後の大名で、上杉氏の舌で、守護代を勤めていた長尾氏出身で、改名する前は長尾景虎(ながおかげとら)と言いました。自らを毘沙門天の生まれ変わりと信じていて、後の世で、越後の虎、越後の龍と呼ばれました。

長尾景虎時代

上杉謙信

上杉謙信が長尾景虎を名乗っていたのは、越後守護代長尾為景の四男・幼名虎千代として、春日山城で生を受けます。6歳のときに兄・晴景が家督を継ぎ、虎千代は平林寺に預けられますが、1,543年に元服して長尾景虎と名乗り、長尾家領統治のために、中越の栃尾城に入ります。当時越後では内乱が起こっており、兄・晴景は病弱なこともあって内紛を治めることができずにいました。景虎は元服した年に、兄を侮って反乱を起こした豪族達を討伐し、初陣を飾ることとなりました。1,546年、黒滝城主の黒田秀忠が長尾氏に対して謀反を起こし、上杉定実から兄に代わって討伐するよう命ぜられ、黒田氏を総大将として滅ぼすことに成功しました。このことから、越後の一部の人々からは、景虎を支持する声があがり、晴景に対陣を迫る動きも見られ、晴景・景虎の関係は険悪なものになります。

景虎家督相続

晴景と景虎の仲は、上杉定実の仲介によって取り持たれ、景虎が晴景の養子となり、家督を譲って隠居することになりました。19歳で家督を相続した景虎は、長尾氏の本拠地である春日山城に入って、越後守護代となりました。2年後、跡継ぎを残さずに上杉定実がこの世を去り、将軍・足利義輝命により、景虎の越後国主の地位が認められることとなりました。この景虎の家督相続を不服として、一族の坂戸城城主・上田長尾家の長尾正景が反乱を起こしますが、景虎は、翌年にはこの反乱を鎮圧しています。

川中島の合戦

甲斐の武田晴信の信濃侵攻によって領地を奪われた信濃国民が、景虎のもとへ領地復権を望んで逃亡してきます。景虎はこれに応じ、信濃に出向き、第一次川中島の合戦が繰り広げられます。これを皮切りに、川中島での合戦は決着がつかないまま、何度か繰り広げられます。そんな中、長く続く武田氏との抗争や、家臣同士の領土争いの調停などで心身ともに疲れていたと思われる景虎が、出家すると宣言して高野山に向ってしまいます。慌てた天室光育や長尾政景らの説得で出家を諦めますが、翌年も川中島の合戦に出陣しますが、武田軍とはにらみ合いになるばかりで、越中で一向一揆も起こってしまい、やむを得ず撤退するしかありませんでした。

1,560年、越中に出陣し、陣保長職を破り、次いで武蔵松山城を攻め落とします。1,561年には関東管領・上杉憲政を擁して、旧上杉家家臣団10万の大軍で小田原城を包囲します。足利義氏を追放し、自らが押している足利藤氏を古河御所に入れましたが、小田原城自体は落城することができませんでした。このとき、上杉憲政の要望で、鶴岡八幡宮において、景虎は山内上杉家の家督と、関東管領職を相続し、名前も『上杉政虎』と改めました。

武田信玄・北条氏康

武田信玄

1,561年、4度目となる川中島の合戦に出陣します。8月に行われたこの合戦は痛み分けに終わり、11月に関東で再び信玄・氏康と戦いますが、8月の川中島での合戦の軍勢の被害が大きく、積極的に戦うことができませんでした。翌月12月、将軍・義輝の名前から一字を賜り、名前を『輝虎』と改めました。武田氏とは5度目になる川中島の合戦をしますが、60日にも及ぶ戦いは、結局決着がつかずに撤退しています。関東戦線では輝虎が上の館林城主の赤井氏、武蔵の成田氏、下野の小山氏、下総の結城氏を、その後、下野の佐野氏、常陸の小田氏を降伏させ、臼井城も陥落させています。

北条氏との関係

同じ頃、武田信玄が上杉方の西上野を平定し、長野氏や倉賀野氏を滅ぼし、輝虎は信玄の勢いを止めようとしますが失敗します。そのため、これまで輝虎に味方したり降伏していた関東勢らが次々と北条氏側につくことになります。

1,569年、武田信玄を牽制するために、これまで宿敵となっていた北条氏康と同盟を結びます。この同盟で、上野国の北条方の豪族は、輝虎側に降ります。輝虎は氏康の息子、北条三郎を養子として迎え、自身の初名であった景虎の名前を与え、とても厚遇しました。輝虎は12月に法号を不識庵謙信としました。

1,571年に北条氏康がこの世を去ると、後を継いだ北条氏政は謙信との同盟を破棄し、再び武田信玄と和睦を結びます。このとき、織田信長から同盟の申し出を受けています。信玄に通じて反乱を起こした一向一揆に手を焼いていましたが、なんとかその年の年末までには制圧することができました。1,573年に武田信玄が病気でこの世を去ると、謙信は越中のほとんどを制圧します。1,575年には養子の喜平次顕景を景勝と改名させています。

織田信長との戦い

織田信長

1,576年、長い間織田信長との戦いで苦しい思いをしていた本願寺顕如と講和します。さらに武田勝頼とも和睦し、信長との同盟を破棄します。ここで新たに謙信を同盟主とする、反信長包囲網を築いたのです。


富山城、増山城を落としたのを皮切りに、勢いに乗って次々と攻めていきます。手取川の戦いでは、七尾城を落とした謙信軍に対し、城が落ちたことを知るのが遅かった織田軍は撤退に手間取り、謙信軍は織田軍を追撃して大勝したと言われています。

上杉謙信の最期

1,577年12月18日。春日山城に帰った謙信は12月23日に、次の遠征の大動員令を発令しました。翌3月15日に遠征を開始する予定でした。しかし3月9日、遠征の準備中に城内で倒れ、3月13日に享年49歳でこの世を去りました。