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豊臣秀吉~誕生から出世の道へ

豊臣秀吉は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将であり、戦国大名です。百姓出身(足軽の子であったとも)で天下統一まで登りつめた、日本の歴史上、他では例のない、異例の出世をしています。

秀吉の誕生

豊臣秀吉

尾張国愛知郡中村に、百姓をしていた木下弥右衛門と、なかの子として生まれました。百姓ではなく、織田家の足軽をしていた家系だったとも言われています。生年月日は諸説がありますが、現在では天文6年2月6日とする説が有力とされています。幼い頃に父、木下弥右衛門がこの世を去り、なかは織田信秀の同朋衆をしていた竹阿弥と再婚しますが、秀吉とは折り合いが悪く、虐待されていたために、侍になるべく、家を出て駿河国に行ったとされています。

家臣時代

今川家の家臣をしていた時代は、木下藤吉郎と名乗っていました。今川氏の直臣の飯尾氏の配下、引馬城支城の頭蛇寺城城主、松下之綱に使え、今川家の陪臣(臣下の臣下)になりました。目をかけてもらっていた藤吉郎でしたが、すぐに辞めてしまいます。1,554年頃から織田信長の奉公人として仕え始めます。率先して清洲しろの普請奉行、台所奉行などを引き受け、大きな成果をあげました。こうして信長の歓心を買い、織田家の中で頭角を現していきます。1,561年に、浅野長勝の養女、杉原定利の娘ねねと結婚します。やがて、竹中重治、川並衆の蜂須賀子六、前野長康らを自分の配下に組み入れています。1,568年には近江箕作城攻略戦で活躍し、信長の上洛のときには明智光秀、丹波長秀らと、京都での政務を任されています。このときの文書に、『秀吉』の名乗りが見られます。1,570年には越前国の朝倉義景討伐に従軍し、浅井長政の裏切りで挟み撃ちにされると言う危機に陥りますが、秀吉は池田勝正や明智光秀としんがりとして軍の最後尾を勤め、功績をあげました。その後も浅井、朝倉戦でも功績をあげています。

織田政権と信長の死

織田信長

浅井氏が滅亡すると、今浜の土地を長浜と改め、長浜城の城主になります。丹波長秀と柴田勝家から一文字ずつをもらい、木下姓から羽柴姓に改め、羽柴秀吉としています。人材発掘にも積極的で、旧浅井家家臣団や石田三成などの、将来有望とされる若者を登用していました。1,576年、信長に、越後国の上杉謙信とにらみ合いを続けている柴田勝家の救援を命じられますが、作戦を巡って勝家と言い争いになってしまい、勝手に帰還してしまいました。このとき勝家は上杉謙信に敗れています。(手取川の戦い)その後も信貴山城の戦い、上月城の戦い、三木合戦、鳥取城の戦い、高松城の水攻めなど、数多くの戦いで功績をあげ、『城攻めの名手秀吉』と呼ばれるようになります。

信長死す

1,582年6月2日、京都本能寺において、主君織田信長は明智光秀の謀反によって火を放たれ、この世を去ります。事件をしった秀吉はすぐに京都へ軍を返しました。突然秀吉軍が現れたことに驚いた光秀は戦いに挑みますが、数多くの者たちが寝返って秀吉を支持したため、兵力で劣る光秀は大敗を悟った光秀は勝竜寺の退却、その後松本城をさして落ち延びる途中、小栗栖の藪で、土地の住民の落ち武者狩りにあい、この世を去ります。更に秀吉は、光秀の残党も一人残らず征伐し、僧籍の者を除き、明智家は滅んでしまいました。この織田信長の弔い合戦の後、信長の後継者に織田信忠の三男、三法師、その後見人として織田信考がつくことになりました。

柴田勝家

柴田勝家

秀吉と勝家の対立は益々激しくなっていきます。秀吉が宝寺城を築き、山崎と丹波で検地をし、織田家の大名と私的に誼(親しくすること)を結んでいったためと思われます。勝家は織田信考らと共に、諸大名に対して秀吉への弾劾状をばら撒きます。弾劾状とは、不正をはっきりさせ、責任を取らせることをいいます。これに対し秀吉は、信長の四男で養子の羽柴秀勝を喪主として、信長の葬儀を執り行うことで切り抜けました。 信長の葬儀から2ヵ月後、雪で動くことのできない越前の勝家を見てチャンス到来とし、5万の兵を引き連れて勝家お養子、柴田勝豊の守る長浜城を包囲しました。勝豊は元々勝家と、同じ養子の柴田勝政と不仲な上、自分自身も病気で床に臥していたために、秀吉に応じて簡単に降伏しました。更に美濃に侵攻し、織田信雄軍の合流などもあって兵力が増し、信考の家老、斉藤利堯が守っている加治木城を攻めて降伏させました。信考は岐阜城に孤立してしまい、三法師を引き渡し、生母と娘を人質として差し出すことで和議を結びました。

勝家の最期

1,583年、反秀吉派の一人、滝川一益によって、伊勢峰城を守る岡本良勝、関城、伊勢亀山城を守る関盛信らが破られ、秀吉は反撃に出るも一益の住む城を攻めますが、落とすことはできませんでした。別部隊も長島城や中井城に向かいましたが、こちらも滝川勢の抵抗にあい、敗退しています。

2月28日、勝家は前田利長を先頭に出撃させ、後から自らも3万の兵を率いて出陣します。秀吉も対抗し、にらみ合いが続きます。やがて秀吉方に降伏していた柴田勝豊家臣、山路正国が柴田方に寝返り、織田信考が岐阜で稲葉一鉄を攻めるなどして、当初は勝家軍が優勢でした。4月24日の夜明け、勝家の家臣、佐久間盛政は、秀吉が織田信考を討つために美濃に赴いた隙に奇襲し、大岩山砦の中川清秀は命をとられ、岩崎山砦の高山重友は逃げ出しました。勝利した盛政は、勝家の撤退命令を聞かず、そのまま砦で対陣を続け、翌日引き換えしてきた秀吉の反撃と、前田利家の裏切りによって柴田軍は大敗してしまいます。勝家も越前に撤退を余儀なくされました。4月24日、勝家は正室お市の方と自ら命を絶ちます。奇しくもこの夫婦は、秀吉がまだ羽柴を名乗っていた頃、仲介役として間に入って夫婦となった二人でした。勝家なきあと、秀吉は加賀国と能登国を平定し、前田利家に与え、織田信考を自害に追い込み、滝川一益も秀吉に降伏することになります。反秀吉陣営をなくした秀吉は、天下統一の第一歩として、信長の後継者としての地位を手に入れたのです。