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織田信長~本能寺の変

日本の歴史の中で、有名な事件の一つ、本能寺の変です。織田信長が重臣の裏切りに合う事件ですが、どんな事件だったのでしょうか。

信長を取り巻く情勢

織田信長

1,582年までに、織田信長は京都を中心とした畿内や、その周辺の地域を手中に収めていました。信長は武田家を滅ぼしており、信長に従う姿勢を見せていたのは関東の後北条氏、東北の伊達氏で、敵と呼べるのは中国の毛利氏、四国の長宗我部氏、北陸の上杉氏、九州の島津氏でした。敵と呼ぶと言っても、実際は手をこまねくほどでもなく、かつて織田信長包囲網に一役かって、一時信長を苦しめていた毛利氏は、羽柴秀吉(豊臣秀吉)との戦いで、ひと頃の勢いを失っていました。上杉氏は謙信亡き後、後継ぎ争いで御館の乱が起こっていると同時に、家臣の反逆で心身共に疲れて弱っており、かつて武田信玄を困らせた強力な軍団ではなくなっていました。四国では三好康長が信長に属していて、織田信孝が長宗我部氏との戦いの準備を進めていて、すでに織田家にとって有利になっていました。九州は大友氏、龍造寺氏が信長に属するとの意志を伝えてきており、島津氏だけで信長に対抗しなければいけない状況でした。

信長の状況

安土城を本拠として、柴田勝家、明智光秀、滝川一益、羽柴秀吉(豊臣秀吉)、織田信孝などの軍団長を指揮して、信長は天下統一を目指していました。このとき織田信長は数え年で49歳。打倒信長事件があったとは思えないほど順調にことが進んでいて、このまま行くと天下をとれると思われる情勢でした。しかし、全国に多くの兵力を派遣していた信長周辺の軍勢は手薄になっていて、武田家を滅ぼしたあとは天下統一も目前とばかりに開放的になっていて、畿内では信長も家康も、多くを引き連れず、小勢で移動をしていました。そんな状況のときに、信長の近畿管区軍とも言える明智光秀が謀反を起こし、信長を急襲、『本能寺の変』を起こします。

本能寺の変

明智光秀

武田攻めから帰還した明智光秀は、長年武田氏と戦ってきた徳川家康の接待役を5月15日から務めました。そんな折、信長のもとに備中高松城攻めを行っている羽柴秀吉(豊臣秀吉)から『毛利方が大軍を率いて高松城の救護に向う動きがある』との知らせを受け、援軍依頼が入りました。17日に信長は、家康を接待中の明智光秀の接待役を途中解任して居城、松本城に帰され、秀吉援護に向うように命ぜられます。26日にもう一つの居城、丹波亀山城に移って出陣の準備を始めます。一方、信長は秀吉の応援に自らが出陣するために、29日に小姓を中心とした僅かな供回りだけで安土を発ちます。同じ日、京都の本能寺に入り、軍勢の集結を待ちます。信長の嫡男、織田信忠は妙覚寺に入りました。翌日6月1日に信長は本能寺で茶会を開いています。同じ日、明智光秀が1万3,000の兵を引き連れて出陣しました。

運命の朝

6月2日朝。秀吉の援軍として出陣したはずの明智光秀の軍が、京都、本能寺にありました。明智軍は本能寺を完全に包囲します。信長は物音で目が覚め、家来のケンカだと思い、近習に様子を見に行かせました。そこで近習の見たものは……。

信長は『本能寺は軍勢に囲まれており、紋は桔梗(明智光秀の家紋)であります』と報告を受けました。信長は『是非に及ばず』(『城介が別心か』と、信忠の謀反だと疑ったとする説もあります)と言って、表に出て弓で戦いました。ところが弓の弦が切れてしまい、次に槍を手に取り敵を突き伏せました。しかし信長に殺到してくる兵から槍傷を受け、防戦を断念して女衆に逃げるよう指示し、自分は本能寺の奥にこもりました。そして、信長の小姓・森蘭丸に本能寺に火を放たせ、炎の中で自刃して命を絶ちました。明智光秀の娘婿、明智秀満が本能寺の焼け跡を探しましたが、最後まで織田信長を見つけることはできませんでした。

明智光秀が、どうして謀反を起こしたのか、様々な説がありますが、本当のことは分からないままです。