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織田信長~桶狭間の戦いまで

織田信長は、戦国時代から安土桃山時代に活躍した武将・大名です。日本の歴史に中でも、重要な人物とも言えるでしょう。武田一族を滅ぼし、本能寺の変で命を落としました。波乱に満ちた生涯とは、どんなものだったのでしょうか。

織田信長の少年期

織田信長

1,534年5月12日、尾張国の戦国大名・小田信秀・土田御前の次男として、尾張勝幡城で産まれました。幼名は吉法師と言います。土田御前は正室だったために、吉法師は嫡男となり、2歳で那古野城主になります。幼い頃から青年期にかけて普通と違う振る舞いが多く、まわりからは『尾張の大うつけ』と呼ばれていました。また身分にもあまりこだわらず、町の若者とも戯れていました。これは大人になってからも変わらず、城で行われる相撲大会などでは、家臣と町民とが相撲をとったり、町人と一緒になって踊り、汗をかくとふいてやるなどの行為もしていたようです。世子の頃に、表面的に織田家の家臣としての立場を守り、潜在的な緊張感を保ってきた『織田大和守家』が支配している清洲城の馬に乗って火を放つなど、父である信秀も驚くような行動をとって、若い頃から度胸があって肝が据わっているところを見せていました。

徳川家康との出会い

幼い頃、今川方に人質として送られて生活していましたが、今川方から織田方に寝返った三河の戸田康光から織田方に人質として送られてきた、後の徳川家康である、松平竹千代と幼少期を一緒に過ごし、大人になった後にも2人は堅い同盟関係を結ぶことになります。1,546年、吉法師は古渡城で元服し、織田上総介(織田信長)と名乗るようになります。2年後、父・信秀と敵対していた美濃の戦国大名、斉藤道三との和睦が成立すると、その娘・帰蝶と政略結婚をしました。1,549年に上総介と会見した道三は、それまで『うつけもの』と呼ばれていた上総介の器量を見抜いたとも言われています。

家督争い

当時の尾張は守護大名の斯波氏の勢力が衰え、織田大和守家当主で清洲城主だった織田信友が実権を握っていました。父・信秀は信友に仕える三奉行の一人だったにも関わらず、その知恵と勇気を持って尾張中西部に支配権を拡大していました。1,551年に信秀がこの世を去り、上総介が家督を継ぐことになりますが、信友は上総介の弟である、織田信勝が家督を継ぐべきだと支持し敵対、上総介謀殺計画が立てられます。しかし、尾張守護・斯波義統がこれを上総介に密告したことで激怒した信友は、義統の命をとってしまいます。義統の息子、義銀が上総介を頼って落ち延びてくると、上総介は信友を義統の命をとった謀反者だとして、叔父である織田信光と協力し合い、信友の命を奪います。このことで『織田大和守家』は滅びたことになり、上総介は本拠を清洲城に移し、尾張守護所を手に入れたことになります。織田家の分家扱いでしかなかった上総介が、名実ともに織田家の頭領となりました。

尾張統一へ

1,556年、義父の斉藤道三が、子・斉藤義龍との戦いに敗れてこの世を去ります。上総介は援軍を出しますが、これに間に合わなかったと言われています。これによって当主としての器量が疑問視され、上総介を役から降ろし、聡明だと言われている弟・信勝を擁立しようち、織田家重臣の林秀貞、林美作守、柴田勝家らが立ち上がり、これに対して上総介には森可成、佐久間盛重、佐久間信盛らが味方をします。信勝派は上総介と戦いますが敗北、その後末盛城に籠り、上総介に包囲されますが、母・土田御前の仲介によって、信勝、勝家らを赦免することになります。翌年、信勝は再び謀反を企てますが、最初の戦いの頃から上総介に通じていた柴田勝家が密告をし、謀反の計画をしった上総介は病気を装って信勝を清洲城に誘い出し、命をとりました。更に、旧主・織田大和守家の宿敵、織田一門の宗家だった尾張上四郡の守護代『織田伊勢守家(岩倉織田家)』の岩倉城主・織田信賢を犬山城主・織田信清と協力して破り、追放しました。新しい守護として擁立した斯波義銀が、上総介追討の計画を企てていることを知ると、義銀も追放することとなりました。こうして1559年までには、尾張国内全ての支配権を確立しました。

桶狭間の戦い

尾張統一を達成した翌年、するがの戦国大名・今川義元が尾張に侵攻してきました。義元の軍勢は数万と言われる大軍でした。織田軍は5,000人の兵力で応戦しますが織田方の城砦は後の徳川家康、松平元康率いる三河兵を先頭にした今川軍によって、次々と陥落していきます。危機に瀕しているにも関わらず、信長は静寂を保ち、深夜好んでいた幸若舞『敦盛』を舞うと装具をつけて出陣します。熱田神社に参拝し、善照寺砦で4,000人の兵を引き連れて出撃します。今川軍の陣中に強襲し、義元を討ち取りました。総大将が討ち取られたことを知った今川軍は、本国駿河に逃げ帰りました。この桶狭間の戦いの後、今川氏の勢力は次第に弱いものとなり、今川氏が支配していたものから独立し、三河国の徳川家康が戦国大名となります。