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石田三成

石田三成が活躍した安土桃山時代は、日本の歴史の中で、織田信長と豊臣秀吉が天下人として日本の統治権を握っていた時代です。 天下人、豊臣秀吉とのかかわりが大きい人物でもあります。

秀吉との出会い

石田三成

1,560年、石田正継の次男として近江国坂田郡石田村で生を受けます。幼名は佐吉と言いました。石田村はそれ以前、石田郷と言い、石田の郷名を苗字としていた土豪だったと推測されます。豊臣秀吉が羽柴秀吉と名乗って織田信長に仕え、1,574年にお生み長浜城の城主となった頃から秀吉の小姓として仕えていました。信長の命令で、秀吉が総司令官として中国征伐に赴いたときにも従軍しました。1,582年に本能寺の変が起こり、織田信長が自刃すると、秀吉は次の天下人として台頭しますが、三成も側近として、徐々に台頭していきます。賤ヶ岳の戦いに従軍したときには、柴田勝家の動向を探る偵察行動と、先駆け集として一番槍の功名を上げています。小牧・長久手の戦いを経て、近江国蒲生郡の検地奉行を務めました。

三献の茶伝説

佐吉は幼い頃から学問修行のために、観音寺に預けられていました。15歳の戸木に秀吉と出会います。鷹狩りの途中、秀吉は観音寺に立ち寄ってお茶を所望します。佐吉は最初に熱いお茶を少量出しました。次に少しぬるめのお茶、最後にぬるいお茶をなみなみと出したのです。この機才に深く感心した秀吉は、佐吉を召抱えることにしました。このエピソードは江戸時代の史料によるもので、創作と考えられています。

豊臣政権のもとで

豊臣秀吉

1,585年、秀吉が関白になると、従五位下治部少輔に叙任されます。秀吉から、その年末には近江水口4万石の城主に封じられます。翌年、知恵も勇気も兼ね備えていると名高かった名将。島左近を自分が持っている4万石の半分、2万石で召抱えました。誰が説得しても召抱えられなかった左近を、自領の半分も与えたとの事実に秀吉は驚き、また賞賛しました。そして左近に三成への忠誠を促し、菊桐紋の羽織を与えました。同じ年、三成は越後から秀吉に臣従を誓うために上洛してきた上杉景勝のことも斡旋しています。また、秀吉から堺奉行に任命されています。

1587年、兵糧や武器を運ぶ運送役として急襲征伐に参陣します。九州征伐後は博多奉行となり、博多復興に関わりました。1,588年には九州の島津義久の秀吉との謁見を斡旋します。

小田原征伐

1,590年、小田原征伐に参陣します。後北条氏の支城、館林城、忍城の攻撃を秀吉から命ぜられます。殆どの支城は落城しましたが、忍城だけは小田原開城後まで戦いが続きました。このことから、三成は戦が下手だとする説もあります。その後、常陸の佐竹義宣の秀吉への謁見の斡旋や、奥州仕置後の奥州検地奉行を務めるなど、実績を着実に重ね、行政官僚としての功績は大きいものでした。

秀吉の死後

豊臣秀頼

1,598年に秀吉がこの世を去ると、嫡男の豊臣秀頼が後を継ぎました。関東250万石の大老・徳川家康が次の天下人を狙い、徐々に台頭してきます。権力を奪いとろうとする家康は、石田三成と対立関係にある加藤清正、福島正則、黒田長政らと豊臣氏に無断で縁戚関係を結んで行きます。三成は、こうした家康の無断婚姻を『秀吉が生前の文禄4年に制定した無許可縁組禁止の法に違反する』として、前田利家らと相談し、家康に罪を問いただす使者を派遣します。世は豊臣政権でしたので、孤立する不利を悟り、家康は和睦するために利家・三成と誓紙を交わしました。しかし、家康と互角の勢力を持っていた前田利家が病死すると、その直後、石田三成と敵対関係にあった加藤清正、福島正則、黒田長政、細川忠興、浅野幸長、池田輝政、加藤嘉明らが石田三成の大坂屋敷を襲います。しかし、事前に佐竹義宣の助けで大坂から逃れていて、伏見城内に三成はいました。前田利家がなくなり、石田三成がこもりがちになってからは、家康の好き勝手ぶりは再び活発になり、一度白紙にしていた無断婚姻や、秀吉が残した命令で、禁止されていた所領配分などもおかまいなしに実施しました。

関が原の戦い

1,600年、石田三成は徳川家康を排除するために、上杉景勝、直江兼続らと挙兵の計画を立てます。その後、上杉勢が家康に叛旗を翻し、家康は諸大名を従え、会津征伐に向いました。これを東西から挟み撃ちにして攻撃するチャンスとして石田三成は挙兵を決意します。家康に従って会津征伐に向うに四国大名、鍋島勝茂や前田茂勝らの東下を、近江愛知川に関所を設置して阻止し、強引に西軍に与せました。7月13日、石田三成は大坂城内に、諸大名の妻子を人質として入れるための軍勢を送り込みますが、加藤清正の妻ら、一部には脱出されてしまいます。細川忠興の正室・細川ガラシャを人質に取ろうとしましたが激しく拒絶され、キリシタンであったガラシャは、自害は大罪で天国に行くことができないため、家老の小笠原秀清に胸を突かせて屋敷に火を放つという壮絶な最期を遂げ、人質作戦は失敗に終わりました。

伏見城陥落

7月17日、家康の重臣・鳥居元忠が守る伏見城を攻めます。鳥居軍の抵抗は激しく、城も頑固で中々陥落しません。そこで、鳥居の配下にいる甲賀衆の家族を人質にとって脅します。8月1日、甲賀州は家康を裏切り、三成の要求通り城門を内側から開け、ようやく伏見城が陥落します。石田三成は伏見城陥落を諸大名に伝えるべく、公布をします。

天下分け目の戦い

いよいよ石田三成は、関が原での野戦に挑むことにします。9月15日、歴史に残る関が原の戦いが始まりました。当初は西軍優勢でしたが、全体を通してみると戦意の低い部隊が多く、徐々に不利になって、小早川秀秋、脇坂安治らの裏切りで、西軍は総崩れとなってしまいました。石田三成は戦いの場から逃れ、伊吹山に逃走、そこから東にある相川山を越えて春日村に逃れました。春日村から姉川、七廻り峠から草野谷、小谷山の谷口から高時川の上流に出て古橋に逃れました。9月21日、徳川家康の命令で三成を探していた田中吉政の追捕隊に捕まってしまいます。それから3日前には、東軍の攻撃で石田三成の居城、佐和山城は落城、父・正継をはじめ、石田一族の多くはこの世を去りました。捕縛された翌日、石田三成は大津城に護送されて門前で生き晒しにされ、その後徳川家康と会見します。さらに大坂に護送され、9月28日には罪人として大坂・堺と引き回しにされ、翌日京都に護送されました。10月1日、徳川家康の命令で、六条河原で斬首され、享年41歳でこの世を去ります。首は三条河原に晒されたあと、京都大徳寺の三玄院に葬られました。

辞世の句 『筑摩江や 芦間に灯す かがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり』

安土桃山時代