安土桃山時代は、歴史の中心が安土城と、桃山と呼ばれた伏見城にあったことからこう呼ばれています。日本の歴史の呼び方として、名前が使われているお城です。安土城は現在の滋賀県蒲生軍安土町にある平山城です。城址は国子弟の特別史跡になっています。
安土城は1,576年に、織田信長が観音寺城の支城のあった安土山に、総普請奉行に丹波長秀を据えて、7年かけて完成させた城です。1,582年の本能寺の変では蒲生賢秀が留守役として居城していましたが、その後賢秀は本拠地、日野城に妻子とともに移動して退去します。本能寺の変以降、織田氏の居城として、信長の嫡孫秀信が入城して、二の丸を中心に昨日していましたが、八幡城築城のために1,585年に廃城となりました。現在では石垣などの一部しか残っていませんが、当時、宣教師ルイス・フロイスが実際に城を観覧し、『日本史』に記録として残しているものから、当時の様子を伺い知ることができます。
安土城は、同じ安土山にあった近江国守護・六角氏の居城であった観音寺城を見本にして作られており、総石垣で普請された城郭です。安土城で養われた築城技術が、安土桃山時代から、江戸時代初期にかけて数多く築城された近代城郭の手本になっています。安土城築城の目的は、武田信玄なきあと、信長の最大の脅威だった、上杉謙信の上洛を阻止できる場所であったためと言われています。山頂の天主で信長が日常生活を送り、家族も本丸附近で生活していました。家臣は安土山の中腹や城下の屋敷に居住していたと考えられています。
1,582年に蒲生氏が居城に戻ったあと、山崎の戦いが起こり、天主や本丸を消失しています。現在安土城が残っていないからと言って、全て消失したわけではなく、その後織田秀信が二の丸に入城していることから、十分に城として機能していたと考えられます。火の出た原因は様々な説がり、本当のことは分かっていません。
『天下布武』を目指した織田信長が築いた安土城。場所も旧勢力の中心、京都と産まれ故郷、尾張との中間地点でもあり、先に紹介したように、上杉謙信の上洛を阻止しやすい場所であったこと、水陸の交通の要衡であったことなどが、信長がこの地を自らの王国とするにふさわしいと選んだ理由ではないでしょうか。戦国時代の覇者としてふさわしい城を築城し、城内には重臣の豊臣秀吉や徳川家康などの邸宅を建てて住まわせていました。城下には楽市楽座という、城下町を繁栄させるための商業政策もとっていたので、全国から商人や職人らが集まっていました。都としての機能を高めるために、道路や水路、港の整備もしていました。城の周辺には外敵の攻撃に備えるよう、安土御構と呼ばれる外濠(そとぼり)も作られました。そこに住む人々には経済的にも身体的にも安全が約束され、こうしたことから安土には次々と人が押し寄せ、益々の賑わいを見せました。また、日本で始めてセミナリオと呼ばれるキリスト教、ラテン語、音楽、数学を教える学校が作られ、武家の子弟達が西洋文化を学ぶなどし、安土は国内外の文化の交流の場としても注目を集めていました。こうした文化も、織田信長が明智光秀の謀反にあい、7年で終わりを告げることになります。