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伏見城(桃山)

日本の歴史区分に『安土桃山時代』があるのは、豊臣秀吉が築城したこの桃山とも呼ばれた伏見城と、織田信長が築城した安土城のことを指します。戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍したこの武将らは、伏見城・安土城で歴史に残る出来事を起こします。

伏見城の概要

伏見城は、豊臣秀吉が自分の隠居生活を送るための城として築城したものです。歴代3度に渡って築城され、始めに築城されたものが指月山伏見城、その後木幡山に移されたものを木幡山伏見城と区別されます。木幡山伏見城は、創建時の豊臣期と、関が原のあとに再建された徳川期に分けられます。

豊臣秀吉がこの世を去ると、豊臣秀頼は秀吉の遺言により、伏見城から大坂城に移ります。代わって五大老筆頭だった徳川家康が伏見城に入り、政務を執りました。関が原の戦いでは、徳川家康の家臣、鳥居元忠らが留守を守っていましたが、石田三成に攻められ、伏見城の戦いで、建物の大半を焼失しています。伏見城に立てこもり、石田軍に命をとられるくらいならと、自刃したときに飛び散った血痕が床板に残り、それらは供養を兼ねて京都市の養源院など、複数の寺の天井板に再利用されていて、現在でも『血天井』として、生々しい血痕を残しています。伏見城は徳川家康によって再建され、廃城した後は、建造物や部材が、二条城など、各地に転用や移築がされています。

伏見城秘話

関が原の戦いで、伏見城を守っていたのは鳥居元忠ですが、徳川家康が会津征伐に向っている隙に、石田三成が城を攻めてくるだろうと見越していました。そのため家康は元忠に好きなだけ守備兵を与えると言ったのですが、すでに死を覚悟していた元忠は申し出を断りました。そのとき元忠の元には1,800の兵力しかありませんでした。鳥居元忠が討ち死にし、伏見城が落城したとの知らせを受けた家康は、人質時代にお守り役として使えていた元忠を想い、人目を避けるように涙をこぼしたといいます。

伏見城の姿

伏見城は、五層の天守を持つ本丸を中心として、二の丸、西の丸、松の丸など、12の廓からなり、北から東にかけては大きな堀を、南にある宇治川には船着場を、西には外濠をめぐらすという姿をしていました。豊臣秀吉と徳川家康が築いたこの伏見城は、本丸跡の主要部分は桃山御陵と呼ばれる明治天皇稜になっていて、宮内庁の管理下に置かれていて、現在足を踏み入れることはできません。天主は二条城に移され(焼失)、福山城には伏見櫓が、御香宮神社の表門として、伏見城大手門が移築されています。

廃城後

徳川幕府に入り、伏見城は廃城しますが、その後開墾されて桃山と呼ばれました。伏見城花畑跡には1,964年に『伏見桃山キャッスルランド』が建設され、五重6階の大天主、三重4階の小天主、櫓門のある模擬天主がRC構造で造られていましたが、2,003年に閉園となり、京都市民の反対運動によって、この伏見桃山城はシンボルとしてのこされることになり、取り壊されないこととなりました。

遺構

伏見城の廃城の際に、数多くの建物が違う場所に移されて再利用されました。移された先々でも焼失などがありましたが、現在でも残っているものも数多くあります。それらを以下に紹介します。

石垣

淀城

大坂城

城門

御香宮神社 表門(大手門を移築)

西本願寺 唐門

二尊院 総門

観音寺 山門

瑞宝寺旧山門

浄照寺 表門(伏見城高麗門を移築)

本山寺 中の門

福山城 伏見櫓(重要文化財)

殿舎

大通寺 本堂(重要文化財)

日暮御殿 都久夫須麻神社 本殿(国宝)

その他

諸候控え室 山渓園

移動式能舞台 福山城、現在は沼名前神社(重要文化財)

茶室 高台寺 時雨亭・傘亭(共に重要文化財)

軍議評定所 渡辺山守綱寺 本堂

伏見御殿の襖絵 福山城

安土桃山時代