千利休は、戦国時代から安土桃山時代にかけての茶人で、わび茶の完成者として日本の歴史に名前を残しています。豊臣秀吉とのつながりも深かったのですが、その秀吉によって利休の命が絶たれる運命へと進んでいきます。
千利休は1,522年和泉の国、堺の倉庫業を営む家に生まれました。幼名は与四郎と言います。若い頃から茶の湯に親しみ、17歳で能阿弥流の北向道陳に茶を習い、珠光流のわび茶、武野紹鴎に師事し、師と共に茶の湯の改革に取り組みます。堺にある南宗寺で参禅をし、南禅寺の本山、京都郊外の大徳寺で大林宗套から『宗易』という法名を受けています。『利休』という名前は1,585年の禁中茶会(皇居での茶会)に参加するにあたり、町人の身分では出ることができなかったため、正親町天皇から与えられた居士号です。この名前の考案者は、大徳寺の住持になった名僧らの名前が挙げられていて、大林宗套、古渓宗陳などとする説があります。『利休』という名前は人生の終焉で名乗っていた名前で、茶人としてのほとんどは『宗易』と名乗っていました、『千』に関しては、祖父が千阿弥という足利義政の同朋衆だったことから、一文字を取って『千』姓としたと言われています。
千利休がわび茶の完成者と言われていますが、『わび茶』という言葉ができるのは利休の生きていた桃山時代ではなく、江戸時代からで、利休の時代には『侘数寄』『わび数奇』と呼ばれていたのではないかと考えられています。書院での豪華な茶の湯に対し、四畳半以下の茶室を使う、一切の無駄を省いた簡素な茶の湯のことを言います。60歳までは先人の茶の湯の方法をそのまま受け継いでいましたが、本能寺の変が起こった年から、ようやく独自の茶の湯をはじめました。ここから10年間がわび茶の完成期と言えます。わび茶の特徴は、名物を尊ぶそれまでの価値観とは違い、利休が職人に作らせた粗末な茶碗であったり、自分で竹を切って作った粗末な道具であったりと、高価なものを使わない、いわば禁欲主義のような特徴があります。
利休と秀吉の関係は、織田信長の時代からはじまっています。当時利休は、信長の茶頭の3番手でした。1,585年の禁中茶会は秀吉が関白になり、その返礼として茶会を主催したものです。菊の間で秀吉自ら入れたお茶を正親町天皇に献じ、利休は控えの間で後見しました。このときに与えられたのが『利休』の名前です。これを機会に『宗易』から『利休』と名乗りを変え、名実ともに天下一の茶匠となった瞬間です。
1,587年、秀吉派島津征伐を行いますが、京都の元の大内裏の中に、並行して邸宅の造営も進められていて、ここに山里丸も営まれ、他の大名らと同様、利休も屋敷を構えます。秀吉が邸宅の落成記念を兼ねて、北の天満宮の境内で茶会を催します。利休はこの茶会の推進役をしました。秀吉が小田原征伐の際には、無聊を慰めるために、能楽者や連歌師らと共に、利休ら茶湯者も同行し、政治などにも大きく影響する存在でした。利休と最も親しい間柄で、兄である秀吉を支えてきた大和大納言と呼ばれた異父弟、秀長がこの世を去ると、 利休弾圧の声があがります。1,591年2月4日、白川で伊達政宗を迎えた利休ですが、政宗の入洛が利休の運命を大きく動かすことになります。
1,591年、利休は突然秀吉の怒りに触れ、堺に下向を命ぜられます。小さな茶器と茶半袋だけを持って京を後にします。異変を聞きつけて、見舞いの使者や書状をよこす弟子らも少なくなく、大名である弟子の前田利家や古田織部、細川忠興らが助命するように奔走しますが、願い叶わず、堺で10日ほど謹慎させられた後、京に再び呼び戻されて切腹を命じられます。2月28日、朝から雷鳴とどろき、雹が降る中、京の利休屋敷の一隅で、釜の湯が煮えたぎる音を聞きながら利休は腹を横一文字に切り、ハラワタを取り出して自在鈎にかけ、更に十文字に切って介錯を頼んだと言います。弟子の蒔田淡路守が介錯して首を落とし、利休の妻、宗恩が白小袖を上からかけました。千利休70歳でした。
利休の首は秀吉の下に届けられましたが、秀吉はそれを検めませんでした。首は一条戻橋でさらし首にされました。なぜ利休は死ななければいけなかったのでしょうか。公表された罪状は2つ。1つは1,589年に完成した大徳寺山門に、利休自身の木造を置いたという、不敬不遜の行為、2つ目は新しい茶器に、法外な価格をつけて売買したと言う非法行為とされています。表向きはこのようにされていますが、利休の娘を所望した秀吉に対して、これを拒否したからとする説や、利休が茶頭の立場を超えて、秀吉の側近として振舞ったことが、秀吉の武将間の権力争いに巻き込まれた結果とする説もあります。ですが本当のことは何も分かっていません。