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東大寺

日本の歴史の学習の中で、東大寺のことは必ず習いますが、修学旅行でも訪れる学校が多いですので、行ったことのある人もいるでしょう。大仏殿のちょっと薄暗い中に、巨大な大仏様が鎮座しています。東大寺は、この大仏様、盧舎那仏(るしゃなぶつ)を本尊としている寺院が東大寺なのです。奈良県奈良市雑司町にある、華厳宗大本山です。

奈良時代から続く寺院

東大寺は8世紀の奈良時代、聖武天皇が日本の国力を尽くして建てた寺院で、金剛明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)とも言い、奈良の大仏で知られています。初代別当としての開山は、良弁僧正です。奈良時代には、中心堂宇となる大仏殿(金堂)や、東西に推定高さ100mの2つの七重塔を含む大伽藍が整備されていました。中世以降に2度も、建物の多くを消失しています。現在ある大仏殿は、建立当時、間口が今よりも広いものでした。奈良時代から現在まで、奈良の大仏さんの寺として広く信仰を集め、聖武天皇が60余カ国に建立させた国分寺の本山になり、『総国分寺』と位置づけられています。

東大寺と大仏

東大寺の起源は、8世紀前半、若草山麓に、前身となる金鐘寺が建てられていました。更には、聖武天皇と皇后が、幼くして夭逝した皇子の菩提のため、山坊を設けて9人の僧を住まわせたことが知られていますが、これが金鐘寺の前身と見られます。741年(天平15年)に、国分寺建立の詔が発せられ、翌年、金鐘寺は大和国の国分寺として定められました。寺名も金鐘寺から金光明寺と改められることになりました。

大仏鋳造

743年に、大仏造立の詔が聖武天皇から発せられました。当時の都は恭仁京でしたが、天皇は紫香楽の宮にいたため、そこで大仏造立が始められました。聖武天皇は何度も遷都を繰り返し、都が平城京に戻ると共に、747年に金光明寺で改めて大仏造立が始められました。この頃から、人々に『東大寺』と呼ばれ始めたようです。

この時代にこれだけの大事業を行うということは、並大抵のことではありませんでした。民衆の支持・寄付が必要であったために、その頃朝廷から弾圧されていた行基を大僧正として迎え、行基は大仏鋳造のために力を尽くしました。大物が完成し、752年に菩提僊那という、天竺出身の僧を導師として、大仏開眼会が挙行されました。大仏が完成してから大仏殿の建造に取り掛かり、竣工したのは758年でした。東大寺では、大仏の創建に力の勢を尽くした、発願者・聖武天皇、勧進(寄付を募ること・資金集め)・行基菩薩、開山・良弁僧正、開眼導師・菩提僊那の4人を『四聖(ししょう)』と呼んでいます。

聖武天皇の自己満足?

寺院の建立だけなら当時珍しいものではありませんでしたが、大仏造立、それに合わせた大仏殿建立となると、建設工事も大規模になり、国費を浪費しました。聖武天皇の思惑とは裏腹に、日本の財政は悪化してしまい、貴族や寺院が豊かになって栄える一方で、農民層の負担が急激に増え、平城京内では浮浪者や飢えで命を落とす者が後を絶ちませんでした。祖庸調の制度も崩壊寸前の地方まで出てきて、律令政治の大きな矛盾点が露呈されました。東大寺建立のきっかけも、自分の皇子の菩提をなぐさめるためであり、天皇の理想を実現するだけのものであり、そのための労働状況、財政事情などの問題点を無視した計画であったことを、世間に知らしめてしまうことになりました。

奈良時代の東大寺

奈良時代、東大寺の伽藍は南北方向に南大門、中門、大仏殿(金堂)、講堂が一直線に並び、講堂の北側に、東、北、西に僧の住居である僧坊がコの字に並び、僧坊の東に食堂(じきどう)、南大門と中門の間の左右には、高さ100mはあるという七重塔がそれぞれ1基ずつあり、それら全てが回廊に囲まれて建っていました。745年に起工してから40年近い年月をかけ、伽藍を完成させています。