井原西鶴は江戸時代の文化の歴史に名前を残している人物で、日本ではじめて浮世草子を確立した人物でもあり、俳人、人形浄瑠璃の作者でもあります。本名は平山藤五といいます。別号は鶴永、二万翁。
西鶴は、1,642年に裕福な家に生まれたと言われていますが、その詳細は明らかになっていません。15歳の頃か羅家業を他人任せにして俳諧の道を歩み始め、諸国を渡り歩くようになります。談林派の西山宗因を師として俳諧を学び、奔放でその場で咄嗟に思いつくことに富んだ句を読む談林派でも、西鶴は自由奔放な作品ぶりから、『オランダ西鶴』と呼ばれていました。当時は一昼夜かけて連続してたくさんの句を作る、『矢数俳諧』というものがあり、西鶴は1日1,000句を読むという、『独吟一日千句』をやり遂げています。こうした西鶴の行動が、談林派の名前を世の中に広めることになります。西鶴はもちろん、矢数俳諧に多くの人が朝鮮し、次々と記録が更新されていきます。しかし、流行というのは廃れて行くもので、もてはやされていた談林俳諧も徐々に人気が衰えていきます。
1,682年、西鶴はそれまで行っていた俳諧ではなく、浮世草子を活動の中心にし、『好色一代男』を1,682年に書き上げます。この浮世草子は大流行します。西鶴は浮世草子の創始者として活躍するようになります。『町人物』『好色物』『武家物』に分けられています。俳諧の影響からなのか、西鶴の文体は、簡潔に書かれていて難解だと言われることもあります。にも関わらず、人気を博したというのですから、西鶴の文章を理解できる、知識と好奇心を持ち合わせた読者がいたということになります。西鶴の浮世草子の作品は以下のものがあります。
作品名に『好色』とついていても、必ずしも現代で言う『好色』の意味を持っているものではありません。『好色五人女』では、巻5以外は女性達が命をかけて一途な恋を貫き、悲劇的な結末を迎える物語になっています。
井原西鶴の代表作で、初めての浮世草子でもある『好色一代男』。主人公・世之介の父・夢介は、『色道ふたつ』に先年して生きている男で、母は高名な遊女でした。世之介は7歳にして性に目覚め、『よろづけにつけてこの事(好色に関わる事)をのみ忘れず』を信念に生き、女護島に60歳で渡るまでの恋愛遍歴を小説にしたものです。
世之介は型破りで常識や倫理など全く意に関していない人物で、当時の風俗や人情を興味深く描いています。この小説は人々の心をとらえ、浮世草子と呼ばれる小説の流行を生み出しました。全8巻54章から成り立っています。
浮世草子作家としての人気と地位をほしいままにした井原西鶴ですが、晩年の生活は困窮したものでした。1,693年8月10日、52歳で西鶴はこの世を去ります。弟子の北条団水らが西鶴の没後、遺稿を整理して刊行したのが、先に紹介した『西鶴織留』『西鶴置土産』です。江戸末期になるとあれだけ人気のあった西鶴も忘れ去られてしまいます。明治に入り、淡島寒月が井原西鶴を再発見し、尾崎紅葉や幸田露伴に紹介し、高い評価を受け、彼らの作品にも影響を与えたことから、日本文学史の中で、井原西鶴は『元禄の文豪』として扱われるようになったのです。