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応仁の乱

日本の歴史に残る室町時代の出来事、『応仁の乱』とは、どんな出来事だったのでしょうか。ときは銀閣寺を作ったとこでも知られている、室町8代将軍・足利義政のときに起こった内乱です。応仁・文明の乱とも呼ばれています。

目的のはっきりしない内乱

細川勝元

応仁の乱は、将軍家の家督争いや管領家の斯波・畠山両家の家督争い、幕府の有力者、細川勝元と山名宗全の対立などが複雑に絡み合い、11年にも及ぶ熾烈な争いを繰り広げますが、どれが本来の目的なのかがはっきりと伝わってこない内乱です。それぞれが争う大義名分を手に入れ、協力する形であるにもかかわらず、自分のために争っているように受け止められます。歴史に残る内乱にも関わらず、本来の目的が見えてこないという内乱でもあります。1,467年、上御霊の森に畠山政長が陣をはり、畠山義就と戦ったのが応仁の乱の始まりです。

畠山雅長と畠山義就

1,467年正月、将軍・義政は、管領・畠山政長邸での新年会の宴会に出席することになっていました。ところがこれを突然キャンセルしてしまいます。将軍・義政は、次期将軍に指名した義視を伴って、対立する畠山義就の開く宴席に出席したのです。この席で、義就のもてなしに気をよくしてしまった義政は、こともあろうか政長の屋敷を義就に譲るよう、命令を出してしまいます。もちろん納得できない政長は、幕府の実力者・細川勝元を通じて屋敷の譲渡を断ると、将軍義政は管領職から政長を解いて、斯波義廉を新しい管領に任命してしまいます。裏で操っていたのは、細川勝元と敵対関係にあった山名宗全です。勝元の顔をつぶし、畠山両氏を切り崩すことが目的でした。畠山政長は兵を集め、打倒義就へと動き始めます。

御霊林の戦い

自分が政長の面子を潰し、義就に鞍替えしたことが原因で畠山両氏の戦闘が始まろうとしているにも関わらず、将軍・義政は暢気に構え、気にも留めていませんでした。しかし、勝元と宗全が争うということはさすがにまずいと感じたのか、2人には手出ししないように命令しました。政長軍と義就軍は、上御霊神社の境内において、戦闘の火蓋がきられました。争いの原因となった自宅に火を放ち、勝ち戦の意気込みで戦闘に臨み、優勢に義就軍を追い詰めますが、山名軍が惨敗し、武断派の宗全は将軍・義政の意向を無視し、義就の支援に回りました。一方官僚派の勝元は、将軍の命令を無視できず、援軍の派遣ができない状態でした。これにより、最初は優位にたっていた政長軍ですが、結果敗北する羽目になってしまいました。これを御霊林の戦いと言います。

応仁・文明の乱

理不尽な負け方をした政長と、宗全に出し抜かれた形になった勝元。二人は怒りが頂点に達し、復讐を決意します。全国の諸大名に呼びかけ、京都に軍勢を呼び寄せました。対する宗全らも味方を募り、京都に呼び寄せ、京都の町は細川・山名の軍勢で溢れかえり、一触即発の様子を呈していました。勝元軍は、細川一族の他に京極持清、赤松正則、斯波義敏など、24カ国15万の兵。対する宗全軍は、山名一党を筆頭に、土岐成頼、六角高頼ら20カ国10万の軍勢でした。山名方の一色義直の邸宅を細川方の武田信賢と細川成之らが急襲して火を放ったのを皮切りに、戦いの火蓋は切って落とされました。細川軍を東軍、山名軍を西軍として、史上最大の戦いが始まりました。

戦闘の長期化

京の町は炎に包まれ、戦いはあっという間に全国に飛び火していきます。歴史のある寺院や神社、公家の屋敷ばかりではなく、庶民の家まで焼け落ちて、京都は焼け野原の惨状でした。1,468年には勝元が管領に再就任し、次期将軍とされていた義視が、将軍義政との仲がおかしくなってきます。このことがきかっけで、将軍家での東軍・西軍のメンバーが入れ替わってしまい、どの軍が誰のために戦っているのか、ごちゃごちゃになって分からなくなってしまいます。将軍にも幕府にも、荒れ果てた京都を復興させるほどの力があるわけでもなく、室町幕府の権威がなくなってしまったとも言えます。ほとんどの大名が京都に上がっている間に、土豪や配下にあった武将達が、自分達の勢力を伸ばそうと画策するようになり、下克上が起こります。それまでの政治代清は意味をなさなくなったことの現れでした。将軍家の流転による東西軍の混乱、幕府の権威失墜、身分秩序の崩壊など、応仁の乱によって日本が乱世の時代へと突き進んで生きます。

応仁の乱の終わりへ

誰のため、何のための戦いなのかも分からなくなっている状態でも、将軍・義政は政治には無関心でした。目的の分からない戦いの中で、『やらなければやられる』という惰性の戦いが繰り広げられていきます。もはや消耗戦でしかありませんでした。

西軍大将の山名宗全が突然この世を去り、東軍は活気づきますが、翌々月、東軍大将、細川勝元まで、急逝してしまいます。将軍・義政と仲たがいをした時期将軍候補・義視が西軍に身を投じたため、息子である義尚が9代目将軍に就任します。勝元の後釜として、畠山政長が管領に任命されましたが、御霊林の戦いを起こした政長が頂点に立つことは反感を買い、西軍の大名は猛反発をし、応仁の乱が終わる気配を見せませんでした。あまりにも長く続いた戦いのため、諸大名らにも様々な弊害が出てきました。戦費の負担、裏切り、造反などが起こり、それぞれの判断で帰国するようになりました。こうして10年以上にもなった戦いに終止符が打たれることになりましたが、畠山義就は戦い続け、将軍職を反故にされた足利義視は幕府との和睦を断り、怨みの念だけど募らせていきました。うやむやのままに終わった戦いは、幕府の権威をなくし、全国で守護大名の不在時の混乱や下克上が蔓延し、もはや室町幕府では手に負えない状態にまでなってしまっていました。長い戦いの終わりは、戦国時代への幕開けでもあったのです。

室町時代