菊池寛は、明治時代に生まれ、大正時代から昭和にかけて活躍した人物です。小説かであり、劇作家でもあり、ジャーナリストでもあります。日本の歴史に名前を残しているのは、小説家としても有名ですが、『文藝春秋』の創設者でもあり、実業家として歴史に名前を刻んでいます。菊池寛(きくちかん)はペンネームで、本名は同じ字を用いて『ひろし』と言います。
菊池寛は、江戸時代、高松藩の儒教の家柄だった家に生まれました。香川県高松市生まれです。学業は優秀で、高松中学校を主席で卒業しました。家の台所事情により、学費が免除になる東京高等師範学校に進学しますが、授業を妨害していたのが原因で、除籍処分となっています。
そんな時、地元の財産家の目に留まり、その頭脳を見込まれて経済的な支援を受けることになり、明治大学法学部に入学し、法律を学んで法律家を目指したこともありましたが、一高入学を望んで中退してしまいます。早稲田大学政治経済学部に徴兵を逃れるために籍だけを置き、一高の受験勉強に励む傍らで、大学図書館では井原西鶴を読みふけったりもしました。1,910年、第一高等学校第一部乙類入学のため、早稲田大学を中退します。もうすぐ卒業と言う時に、後の日本共産党幹部になる友人、佐野文夫の窃盗の罪を着て退学になります。友人、成瀬正一(後の小説家・フランス文学家)の実家から援助を受け、京都帝国大学文学部英文学科に入学しなおしますが、寛には旧制高校卒業の資格がなかったために、選科に学び、本科で学ぶことはできませんでした。後に本科に転学しています。
京大を卒業し、時事新報社会部記者になります。記事を書きながら小説も書き、小説家となります。やがて私費で『文藝春秋』を創刊すると、予想以上の大反響を呼び、大成功を治めて富豪の仲間入りをします。
1,926年、劇作家協会と小説家協会が合併して、菊池寛を初代会長として日本文藝家協会を発足させます。1,935年には友人、芥川龍之介と直木三十五の業績を記念して芥川賞と直木賞を設立します。この賞は、『文藝春秋』社内の『日本文学振興会』によって運営されています。また、大映(角川映画の前身)初代社長を務めるなどし、小説家としてよりも、実業家として成功を遂げていきました。こうした成功で得た資金で、川端康成や横光利一、小林秀雄ら、新進文学者への援助も行っていました。
太平洋戦争のさなか、菊池寛は『国家の非常時に、我々文芸家も国民精神総動員に協力すべし』と国策に便乗し、全国で8ヶ月に渡り、遊説運動を行いました。こうして翼賛運動の一翼を担い、太平洋戦争が終わると政府の要職や、民間企業の要職に就くことができない、公職追放の苦しい思いをし、失意のまま1,948年3月6日に、狭心症によってこの世を去ります。
菊池寛は実業家としての顔の他に、もう一つ顔を持っていたようです。正妻も子供もありながら、数多くの愛人がいたようです。映画評論家としても有名で、その人生も自由奔放だった小森和子もその一人で、あまりにも簡単に体を許したために、『女性的なつつしみがない』と菊池寛は非難したとか。また、両性愛者でもあったようで、まだ若い旧制中学の時代から、4級下の男子学生と同性愛関係にあり、この男子学生に宛てた菊池寛の手紙が数多く現存していますが、この手紙は女言葉で綴られています。この男子学生とは大学時代まで関係を続けていました。一高時代、友人の佐野文夫の罪を被って大学を退学になった時も、佐野に対して同性愛の気持ちを抱いていたからだと言われています。
菊池寛は何に対しても無頓着だったと言われています。何かに固執する気持ちがなかったとでも言えばいいでしょうか。寛は上着のポケットというポケットに、いつもクシャクシャにした紙幣を入れていて、貧しい文士にお金の無心をされると、ポケットから皺くちゃの紙幣を出して、出てきたお金を渡したといいます。ですから、1円札の場合もあれば5円札の場合もあったそうです。とにかく『いくら』ではなく、出てきたお金を無造作に渡していました。そして、自分が貸すときには返してもらうつもりもないし、また、返してくれた者もいなかったようです。