大正時代は、1,912~1,926年の14年間と、日本の歴史の中ではとても短いものですが、この14年間で日本は大きく変わっていきます。大正時代を前後して、都市を背景にした大衆文化が成立しました。現在まで続く生活様式の殆どが、大正時代にルーツのあるものが多いことも事実です。
大正時代には、町の様子も変化を遂げ、町から街が形成されていきます。東京では丸の内や大手町に、エレベーターがついたビルディングの建設が相次いで、一大オフィス街へと形を変えていきます。それまでは農村だった渋谷や世田谷に下町で焼け出された人々が移住し、単なる盛り場だった新宿や渋谷が副都心へと姿を変えていきます。
大阪では非常に数多くの私鉄網が完成し、とりわけ阪神急行電鉄の巧みな経営術で、住宅衛星都市郡が大阪平野に出現しました。東京帝大を卒業した半数の就職先が民間企業になり、『サラリーマン』が大衆の主人公となります。明治時代まで呉服屋であった老舗が、次々と百貨店に姿を買え、銀座はデパート街へと変っていきます。大正時代最後の年には、神宮外苑野球場ができ、東京六大学野球の勢いが益々盛んになります。
新聞の部数も数多くなり、大阪朝日新聞、大阪毎日新聞が100万部を突破して東京に進出し、読売新聞も対抗して成長を果たします。朝日、毎日、読売という今日の三大紙の基礎が、こうして大正時代に築かれました。
都市交通の桧舞台に自動車がのしあがり、円タクなども登場して、陸運手段として、旅客・貨物を問わず、大きな地位を占めるようになります。
食文化では洋食が広まり、『カフェ』や『レストラン』が急成長を遂げ、飲食店のあり方が新しいものへとなっていきます。庶民の食卓に縁のなかった洋食ですが、コロッケの登場によって庶民の食卓にも変化が現れます。欧米式の美容室やダンスホールなども都市部においては珍しいものではなくなりつつありました。男性の服装も、和装から洋装へと変化します。一方、地方の農村や漁村では、こうした近代的な恩恵を受けることができず、都市部との差が出てしまったのも大正時代の特徴と言えるでしょう。
活動写真とは、現在でいう映画です。初めて活動写真が公開されたのは明治時代ですが、大正時代に入り、こうした娯楽が徐々に充実していきます。電気館という洋画の封切り館として親しまれていたこの映画館では、喜劇王チャーリー・チャップリンの短編2巻物が始めて上映されて評判になり、翌年から次々と作品が輸入され、チャップリンの人気が決定的なものになりました。上映中はもちろん無照明で、館内は異様な暗さに包まれていました。遅れて入場した観客には、女給が懐中電灯を片手に手を引いて席まで案内していました。これは『手引き』と呼ばれていました。
大正時代には、日本で始めてラジオ放送がされました。1,925年3月22日午前9時30分、社団法人東京放送局(現在のNHK東京放送局)が、京田武男アナウンサーによる第一声が、東京・芝浦の東京高等工芸学校に設けられた仮送信所から流されました。
『アーアー。聞こえますか。JOAK、JOAK、こちらは東京放送局であります。こんにち只今より放送を開始いたします。』
この一言からラジオ放送がはじまりました。当時のラジオは探り式鉱石受信機がほとんどだったので、最初の『アーアー』の間に、聞いている側が鉱石の針先を一番聞きやすい部分に合わせるための配慮だったと言われています。出力が弱かったために、東京市内でしかよく聞こえなかったようです。大阪放送局では6月1日から仮放送を開始し、名古屋放送局では7月15日に開始しています。