武者小路実篤は公卿の血を引く名家に生まれ、大正時代に活躍した小説家です。学友には志賀直哉などがおり、武者小路実篤もまた、日本の歴史に残る小説家として名前を連ねる一人です。有島武郎も日本を代表する小説家で、武者小路実篤や志賀直哉らと『白樺』を発行した仲間でもあります。
武者小路実篤は小説を書くときのペンネームではなく、江戸時代から公卿の家系である武者小路家に、子爵・武者小路実世の第8子として、東京府東京市麹町(現在の千代田区)に1,885年5月12日に生まれました。2歳の時に、父・実世がこの世を去ります。
名家の出身らしく、学習院の初等科、中等科、高等科を経て、1,906年に東京帝国大学哲学かに入学します。小説家の彼からは想像できませんが、小さい頃は作文を書くのがとても苦手でした。
学習院時代からの同級生だった、志賀直哉やらと1,907年に『一四日会』を組織します。この年に大学を中退し、翌年『望野』という回覧雑誌を創刊します。その2年後、志賀直哉、有島武郎らと共に『白樺』という文学雑誌を創刊します。この雑誌名から彼らは『白樺派』と呼ばれるようになります。白樺派の支柱でもあったトルストイに傾倒します。仲間からは『武者』と呼ばれ、60年に渡って小説だけではなく、戯曲や詩、随筆など、6,000以上にものぼる作品を書き残しました。美術論が高じて、自らも筆を取って絵を描いたり、貴族院議員に就任するなど、小説家としては変わった経歴も持ち合わせています。階位は従三位を持っており、文化勲章を1,951年に授与し、名誉都民の称号も持っています。
実篤は調和社会や階級闘争のない世界を理想とし、その実現を目指して1,918年、宮崎県児湯郡木城村に『新しき村』を建設しました。しかし20年後、ダム建設によって村のほとんどが水没したために、1,939年に埼玉県入間郡毛呂山町に新たに『新しき村』を建設しました。この村の村民になるには、原則として40歳以下でなければいけません。
実篤は『新しき村』が埼玉県に移る前に離村しています。理想とする世界を作ってそこに住んだのはたったの6年で、1,924年に村を離れて、村に住まずに会費だけを納める村外会員になっています。現在でもこの『新しき村』は存続しており、武者小路実篤が住んでいたとされる住居も復元されて見学ができるようになっています。
1,878年3月4日、旧薩摩藩士で大蔵省官僚のあり島武の子として、東京小石川(現在の文京区)に生まれました。横浜に移って、4歳から現在の横浜英和学院である、横浜英和学校に通うようになります。このときの体験が、『一房の葡萄』という童話につながります。 学習院予備科に10歳で入学し、学習院中等全科を19歳で卒業します。札幌農学校に入学、卒業後は渡米してハバフォード大学大学院に学び、さらにハーバード大学でも学んだ経歴を持ちます。ヨーロッパにも渡った後、1907年に帰国します。
日本に帰国後は英語講師をしていましたが、弟の紹介で志賀直哉や武者小路実篤らと知り合い、『白樺』に参加し、『かんかん虫』『お末の死』を発表し、白樺派の中心人物の一人として活躍します。1,916年、父や妻を亡くすと作家生活も本格的なものとなり、『迷路』『生まれ出づる悩み』などを執筆、1,919年に『或る女』を発表します。
『或る女』を発表した後、徐々に創作力が衰え始め、途中で『星座』の執筆をやめてしまいます。1,923年に婦人公論の記者をしていた人妻、波多野秋子と知り合い、恋愛感情を持ちますが、秋子の夫に知られ、脅迫されて精神的に追い詰められることになります。
武郎と秋子は6月9日、軽井沢の別荘で、縊死心中を遂げます。梅雨の時期に1ヶ月経過した7月7日に遺体が発見されますが、腐乱が相当進んでいて一見誰か分からず、遺書で本人と確認できたほどです。2人は蛆虫の巣窟となっていて、天上から床まで蛆が湧いていただけではなく、別荘の外にまで溢れかえっているような有様でした。『愛の前に死がかくまで無力なものだとは此瞬間まで思はなかつた』と、遺書の一部にはありました。