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関東大震災

日本の歴史上で、首都を襲った大地震として、月日がたった今もなお語り継がれている関東大震災。現在でも関東大震災の再来が恐れられています。同時に訪れていた台風の影響で風も強く、大火災も発生して、その被害たるや膨大なものになりました。皇族からも3名の死者が出ていて、小田原では寛子女王(17歳)、藤沢で東久邇宮家の師正王(6歳)、鎌倉で山階宮武彦王妃の佐紀子女王(20歳)がそれぞれ建物の下敷きになって死去しています。

地震発生

1,923年9月1日午前11時58分32秒。神奈川県相模湾北西沖80kmを進言とした海溝型の大地震が発生しました。東京都、神奈川県、千葉県、静岡県と、南関東地方の広い範囲でこれまでにない、最大規模の被害をもたらしました。地震発生時刻が昼食の時間とかさなっていて、火を使っていた家庭も多く、136件の火災が発生しました。台風が能登半島附近に位置しており、関東地方では強風が吹いていました。地震発生時に起こった火災は、台風の強風に煽られ、炎の竜巻となった火災旋風を巻き起こしながら広まっていき、9月3日午前10時頃、2日かけてようやく鎮火しました。

被害

関東大震災による被害は想像を絶するものがありました。地震のあとも気象観測を続けていた中央気象台では、地震発生の夜から異常な高温となり、翌日2日未明には最高気温46.4度を記録しています。大規模な火災は気象台にも接近していて、ついには引火して焼失してしまったために、その後の気温の記録は残っていませんが、火災の激しさを表すエピソードになっています。震災による具体的な数字は以下になります。

死者・行方不明者:14万2,800人(後に10万5,000人余と見られるようになっています)

  • 負傷者:10万3,733人
  • 避難人数:190万人以上
  • 家屋全壊:12万8,266戸
  • 家屋半壊:12万6,233戸
  • 家屋焼失:44万7,128戸(全半壊後の焼失を含む)
  • その他:868戸

東京の主な建造物の被害としては、大正時代に始めてエレベーターが設置された12階建ての凌雲閣が大破し、建設途中だった丸の内の内外ビルディングが損壊、大蔵省や文部省、内務省、外務省、警視庁などの官公庁や、帝国劇場、三越日本橋支店などの文化・商業施設の多くが焼けてしまいました。東京帝国大学図書館など、書籍を扱っている建造物も数多く焼失し、貴重な書籍群が失われました。

震源地近くの被害

震源に近かった横浜市では、官公庁、グランドホテル、オリエンタルホテルなどが石造りや煉瓦造りの洋館で、地震が起きると逃げる間もなく一瞬で崩壊し、中にいた人はなす術もなく圧死しました。地震で起きた火災によって、全ての外国領事館が焼失、口上や会社事務所の9割も焼失しました。千葉県房総地域でも、地面に生じた亀裂の中に、測候所と旅館が陥没するなど、壊滅的な被害を出しました。

津波・土石流

関東大震災では津波も起きています。太平洋沿岸の相模湾沿岸部と、房総半島沿岸部で津波被害が発生し、10mの高さになる津波が記録されています。山崩れやがけ崩れにともなう土石流も発生し、神奈川県山間部から西部下流にかけて土石流による家屋の流出や埋没が発生し、神奈川県の根府川駅では、通過中の列車が土石流によって駅舎・ホームもろとも海中に転落し、100人以上の死者がでました。村は山崩れで壊滅状態です。

復興に向けて

関東大震災で受けた被害があまりにも大きかったため、一時は違う土地への遷都も検討されました。政府は遷都を行うと、被災した土地の復興機運が衰えると考え、公式に『帝都復興の詔書』を発することで否定しました。当時の総理大臣、山本権兵衛を総裁とした『帝都復興審議会』が創設され、大きな復興計画が動き出しました。江戸時代以来の町の大改革が行われ、この頃初めてラジオ放送も始まりました。

一方、第一次世界大戦が終わり、日本経済は不況下にあり、震災手形問題や復興資材の輸入超過問題などが起こり、経済の閉塞感がより深刻化して、後に起こる昭和恐慌の遠因の一つにもなってしまいます。

1,960年に関東大震災のあった9月1日を『防災の日』と定め、政府が中心になって、全国で防災訓練が行われています。