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志賀直哉

志賀直哉は明治時代に生まれ、大正時代に活躍した小説家で、日本の小説界の歴史に名前を残している一人です。国語の教科書に代表作『暗夜行路』などが掲載されていますので、ご存知の方も多いでしょう。

名門出身

志賀直哉

志賀直哉はとても家柄の良い家系に生まれました。祖父・志賀直道は、旧相馬中村藩主相馬家の家令を勤めていて、足尾銅山の開発を古河財閥創始者である、古河市兵衛と共に行い。相馬事件にも関わっています。父・志賀直温は、総武鉄道、帝国生命保健の取締役を経て、明治時代には財界では有名だった人物です。志賀直哉は、父・直温が第一銀行石巻支店に勤務していたときにいた土地、宮城県石巻市に1,883年2月20日に生まれ、3歳になると上京して祖父母に育てられました。

小説家の道

家柄が良いように、学歴を見ても育ちの良さが垣間見れます。学習院初等科、中等科、高等科を卒業後、東京帝国大学英文科に入学後、国文科に移り、やがて大学を中退しています。武者小路実篤とは学習院時代からの友人で、1,910年に一緒に『白樺』という文芸雑誌を創刊します。直哉の父は作家になることを反対していましたが、その対立が結婚問題などでより一層溝が深まったため、家を出ますが、7年後に和解します。

この年に『和解』『城の先にて』を世に出し、その後も名作『焚火』『小僧の神様』などを世に送り出しました。志賀直哉の文章は、無駄のない文章として大正時代から昭和の数多くの文学者に多大な影響を及ぼし、『小説の神様』と呼ばれました。近代日本文学の代表作の一つに挙げられる『暗夜行路』は、志賀直哉唯一の長編小説で、同じ小説家の大岡昇平は、近代文学の最高峰だと絶賛しています。

引越し魔

志賀直哉は生涯を通して、26回も引越しをしています。戦前に住んでいたのは、千葉県の我孫市、京都市、奈良市などを転々とし、美術について広く深い知識や理解を示し、『座右宝』という美術図録を直哉自ら編集して刊行しています。1,938年には東京に住まいを戻しますが、一時期熱海大洞台に移り、『山鳩』『朝顔』を執筆、発表しています。

晩年

谷崎潤一郎と親交を深めていましたが、1,949年に共に文化勲章を受章します。学習院からのつきあいの武者小路実篤や細川護立(白樺発足時の同人、芸術家達のパトロンとしても知られる)、柳宗悦らと交流があり、洋画家の梅原龍三郎や安い曾太郎、哲学者であり、教育者、政治家でもあった安倍能成、哲学者の谷川徹三などの文化人とも交流がありました。晩年は渋谷常盤松に住まいを移し、肺炎と衰弱で1,971年に88歳でこの世を去りました。没後、数多くの原稿類は日本近代文学館に寄贈されています。

高畑サロン

志賀直哉

かつて志賀直哉が住んでいた旧邸宅が奈良県奈良市高畑町にあり、『志賀直哉旧邸』として現在も保存されていて、見学することができます。

1,925年、奈良市幸町に京都山科から引越し、1,929年、奈良公園に隣接している高畑に自ら設計に関わって住居を建設しました。鎌倉に移り住むまで、家族と共に10年間、この家で過ごしました。モダンで合理的な建物で、数奇屋造りだけではなく、洋風、中華風な様式もあり、サンルームや書斎、娯楽室、茶室、食堂などが備えられていました。この家で、『暗夜行路』『痴情』『邦子』『プラトニック・ラブ』などの作品が書き上げられました。

この家には武者小路実篤や小林秀雄、尾崎一雄、小林多喜二などの白樺派の仲間や、画家、文化人が直哉を慕って訪れ、一大文化サロンとなって、文学論や芸術論などが語られました。そしていつしかこの志賀邸は『高畑サロン』と呼ばれるようになります。書斎や2階からの眺めが素晴らしい邸宅で、執筆に疲れたときに散策できるように作られた庭園もありました。