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虎ノ門事件

虎ノ門事件は日本列島に衝撃を走らせる事件でもありました。日本の歴史上に残る事件でもあったのです。事件の犯人の家族だけではなく、周囲の人間も数多く責任を取り、人生が大きく変わってしまいました。

事件発生

難波大助

1,923年12月27日、共産主義者のアナーキスト青年、難波大助が虎ノ門において、摂政宮を狙撃するという事件が起きました。

後の昭和天皇である裕仁皇太子殿下が、病気を患っていた大正天皇に代わって執政を行っており、事件のあった日は帝国会議の開院式に出席するために、貴族院に向けて車で移動をしていました。車が虎ノ門に差し掛かったところ、群集の中から難波大助が飛び出してきて、ステッキ仕込みの散弾銃で狙撃しました。銃弾は車の窓ガラスを破りましたが、皇太子には命中せず、同乗していた侍従長・入江為守が軽症を負うにとどまりました。

大助は『革命万歳!』と叫びながら車を走って追いましたが、周囲の群衆に囲まれて袋叩きにされました。警戒中の警官や憲兵が大助を取り押さえる際、群集の袋叩きから身を呈してそれを防がなければいけませんでした。調べに対し、事件の3ヶ月前に起こった大杉事件や亀戸事件をきっかけに、摂生宮を襲うことを企てたことが分かりました。この襲撃に対して、皇太子は『空砲だと思った』と、側近に語っています。

周囲への影響

昭和天皇

事件を受け、当時の内閣総理大臣・山本権兵衛は、即刻皇太子に対して辞表を提出しました。辞表の意思を受けた皇太子は、山本をなだめて思いとどまらせようとしましたが、山もとの決意は固いものでした。結局1月7日に内閣が総辞職することになります。また、警護責任を取る形で、当時の警視総監である湯浅倉平と、警視庁警務部長の正力松太郎が懲戒免官になりました。大助が状況する際に立ち寄っただけの京都府知事まで懲戒処分の中で最も軽い、譴責処分を受けました。

大助の郷里では

大助の出身地であった山口県の知事に対しては、2ヶ月間、2割の減俸処分がされました。また、年末に起こった事件でしたので、山口県の全ての村々では正月の行事を全て取りやめて、事件に対しての喪に服しました。大助が卒業した小学校の校長と担任は教育責任を取り、辞職に追い込まれました。

教育勅語(明治天皇の名のもとに、明治23年に発せられた『教育ニ関スル勅語』のこと。昭和に入って失効されています)の奉読を間違えただけで、自らの命を絶った校長がいる程の時代で、衆議院の院内会派の庚申倶楽部に所属していた大助の父・難波作之進は、息子の事件の報を受けると即刻辞表を提出しました。更に、自宅の門を青竹で結んだ閉門の様式を取り、家の中の一室で謹慎して食を断ちました。父親は、大助が処刑されてから半年後、食を断ったことにより、この世を去りました。兄もまた、それまで勤務していた鉱業会社を退職しています。

裁判

大助は事件を起こす前、自分が精神異常者ではないことを示すために、新聞社に対して、自分は共産主義者であること、テロの決行を伝える趣意書を送付し、友人らには絶交状を送りつけていました。大助が起こした皇室の人間に対する大逆罪は、はじめから現在の最高裁判所である大審院で審理されます。大助を精神異常者とすることは不可能であったため、『自己の行為が誤りであったと陳述させ、裁判長は難波の改悛の情を認めたうえで死刑の判決を下すが、摂政の計らいにより死一等を減じ無期懲役とする』とすることが、天皇の権威を回復するための最も良い手段だと政府や検察が判断し、そうするように動いていました。しかし、大助は審理の最終陳述で、こうした藩政陳述を行わず、11月13日に極刑が言い渡されました。このとき大助は、『日本無産労働者、日本共産党万歳、ロシア社会主義ソビエト共和国万歳、共産党インターナショナル万歳』と叫んだと言われています。

刑の執行は2日後に行われ、最後の言葉は『私は冷然として涙一つ落とさない』でした。父親が遺体の引き取りを拒んだため、大助は無縁仏として埋葬されました。