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二・二六事件

歴史に残る二・二六事件は、貧富の差が拡大し、農民の貧しい暮らしが益々苦しくなる政治のあり方や、群の方針に不満を持つ陸軍の皇道派に属する青年将校らが1,936年2月26日に起こしたクーデターで、事件の発生日時から、二・二六事件と呼ばれています。事件後しばらくの間、『不祥事件』『帝都不祥事件』とも呼ばれていました。

事件の概要

青年将校率いる第一師団の歩兵第一連隊、歩兵第三連隊、近衛師団の歩兵第三連隊など、総勢1,473名からなる反乱部隊が、当時の首相、岡田総理鑑定などの主要閣僚官邸を襲い、大蔵大臣、内務大臣、教育総監など、9名の命を奪い、赤坂山王ホテルの本拠地を置いて抵抗しましたが、29日には戒厳令が布告されて天皇の鎮圧命令で騒ぎは収まりました。戒厳司令部は3万枚のビラを造り、反乱軍に向けて飛行機から反乱軍に向けて投下されました。

下士官兵ニ告グ

  1. 今カラデモ遅クナイカラ原隊ヘ帰レ
  2. 抵抗スル者ハ全部逆賊デアルカラ射殺スル
  3. オ前達ノ父母兄弟ハ国賊トナルノデ泣イテオルゾ

ニ月二十九日 戒厳司令部

飛行機からビラを投下するだけではなく、『兵士ニ告グ』と、何度も何度も繰り返しラジオで放送しました。クーデターは失敗に終わりましたが軍の要望を聞き入れないと、再びクーデターが起こるということを知らしめる形になりました。

後に開かれた軍法会議では、死刑になった反乱将校が17名、無期禁固刑が5名、禁固15年に6名が処せられることとなりました。その他にも、禁固1~10年の刑を受けた者が大勢います。

襲撃の模様

鈴木貫太郎

青年将校らの狙撃の対象は、天皇が行使する権限を脇から管掌して行動を妨げている『君側の奸』として、内閣総理大臣でもあり、予備役海軍大将の岡田啓介が狙われました。総理官邸に乱入する際に、警備にあたっていた4名の巡査や巡査部長らが拳銃で応戦しますが、このとき命を落としています。この応戦最中に総理大臣は隠れることができ、難を逃れました。総理の義弟、総理秘書官兼身辺警護役の大佐・松尾伝蔵は、自ら反乱将校の前に走り出て命をとられました。総理と松尾は顔も風貌も似ていたため、総理と誤認され、反乱将校らは目的を果たしたと思い込みました。

大蔵大臣の高橋是清と内大臣・斉藤実、陸軍教育総監(陸軍大将)、渡辺錠太郎が私邸で襲われ、警護している者らと共に命を奪われました。

狙われていながらも命が助かったのは、侍従長の鈴木貫太郎です。反乱将校らが侍従長官邸に乱入して襲われますが、妻たかの懇願により、瀕死の重傷を負いますが、止めを刺されずに敬礼して立ち去られ、一命を取り留めています。また、伯爵・牧野伸顕は、湯河原の伊藤屋旅館の元別館、光風荘にいたところを襲撃されますが。警護の巡査が身を呈して襲撃を阻止しようとし、牧野は旅館を脱出することができました。治安維持を担当する内大臣・後藤文夫の官邸も襲撃されますが、本人は外出中で難を逃れることができました。こうして命が助かった官僚らもいますが、その陰では警護している者たち大勢が命を落としているのです。

事件の終わり

昭和天皇

反乱を起こした将校らは、昭和天皇に対し、軍首脳を経由して昭和維新を訴えました。軍と政府はこれを聞き入れず、『叛乱軍』として彼らを武力で鎮圧することを決め、本拠地とされていた、赤坂山王ホテルを包囲して投降を呼びかけました。反乱将校らは原隊に下士官や兵を復帰させ、一部は自ら命を断ったのが2名いましたが、将校の大半は投降して法廷闘争を図りました。

刑の執行

裁判の判決結果は先に述べた通りですが、陸軍刑務所内で執行され、17名の遺体は郷里に引き取られていきました。二・二六事件の死没者の慰霊碑が、旧東京陸軍刑務所敷地跡に建てられた、渋谷合同庁舎の北西角の敷地に建つ観音像がそうです。