団塊(だんかい)の世代と呼ばれるのは、第二次世界大戦後の日本で、第一次ベビーブームで生まれた世代の人たちのことを交呼びます。第二次世界大戦直後、父親が復員したり、落ち着いた生活から婚姻や出生率が上がりました。多くは1,947~1,949年に生まれた世代を団塊の世代と呼びますが、1,955年まで含まれる場合もあります。1,948年までは避妊も堕胎、不妊手術が法律で禁止されていて、優生保護法ができて出生率の増加に歯止めがかかるまでは、ベビーブームと呼ばれました。1,950年以降は、出生率も目に見えて低下しています。
近年ベビーブームは何度かありましたが、第一次ベビーブームと呼ばれるのは、第二次世界大戦直後のベビーブームです。終戦で日本に復員した兵士や、戦争が終わって安堵して子供を作ったために、その前後の出生率に比べると、極端に人口が多くなっています。これは日本だけではなく、世界的に見られる傾向です。一番出生率が多かった年は1,949年で、終戦から数年後、生活が完全に落ち着き始めた頃と言っていいでしょう。出生数が269万6,638人にものぼりました。2,007年の出生数と比べると、2.5倍になっています。団塊の世代と呼ばれる1,947~1,949年の出生率だけを見ても、実に800万人もの出生数になり、それ以降の1,950年代も団塊の世代に数えると、とんでもない数になります。
第一次ベビーブームで生まれた子供達が成長し、義務教育であった中学校を卒業した頃。地方の農村の次男以降の若者達は、高度成長期の後期でもあり、就職口が豊富にあった東京や大阪などの大都市へ集団就職しました。工場だけではなく、当時の個人商店でも御用聞きや配達などが当たり前の時代だったので、住み込みでの働き口はいくらでもありました。
地方から都市部へ集団就職するために、臨時列車に乗って旅立つ集団就職列車がありました。中学校の先生が引率して都市部まで将来の希望を抱き、この臨時列車に乗って若者達は旅立ちました。1,954年に運行が開始された集団就職列車は、1,975年までの21年間、集団就職者を都会へと送り続けました。行き先の多くは東京で、上野駅に降りる場合がほとんどでした。彼らは将来性もあり、安い賃金で働いてくれるということから、『金の卵』と呼ばれました。求人数が就職希望者よりも多くなると、更に貴重な存在となり、『月の石』と呼ばれることもありました。
団塊の世代が適齢期を迎え、結婚して家庭を持つ頃になると、その数の多さから著しい住宅不足が問題となりました。都市部近郊には、核家族向けの近代的な団地が数多く対策として造成されました。また、大手企業は福利厚生の一環として、集合住宅タイプの社宅を構えました。人が住むところには生活物資を販売するための店舗が集まり、衛星都市と呼ばれる中都市を形成しました。都市部周辺にはこうした都市圏が拡大されていき、そのための通勤通学の際の交通網の整備や、鉄道、道路の新設や拡張が行われていき、都市が膨張していった時代でもありました。
団塊の世代が定年退職をし、2,012年を迎える頃には年金受給世代に突入します。高度成長期の後期を支えた世代で、きちんと年金をかけている人も多く、高度成長期を支えてきた世代から支えられる世代へと変り、人数が多い分、日本経済への影響も少なからず出てくるでしょう。また、将来的には介護の問題も出てくると思われます。将来、要介護者になったときや、入院をしなければいけなくなったとき、それに関わる必要な人材や施設の数が、団塊の世代に比例すれば問題はありませんが、現在でも老人施設は入所まで何年も待たなければいけない状況になっていますので、早い時期から政府の対応が望まれます。バブル景気の頃は40代の働き盛りで企業戦士として働き、社会に貢献して日本の歴史を作ってきましたが、高齢化してきて、社会の手を借りて生きていかなくてはいけない時代がやってきます。