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激動の昭和の終焉

日本の元号の歴史の中で、62年2週間と、最も長かったのが昭和時代です。戦争で多くの犠牲を払い、生まれ変わった日本ですが、この時代は『激動の昭和』『動乱の時代』とも呼ばれています。

敗戦国日本

第二次世界大戦は、昭和天皇の玉音放送によって、国民に終戦が知らされました。それまで天皇は神のような存在で、この終戦を知らせるための録音を行う時ですら、天皇は側近しか近寄れず、録音技師は隣室で作業を行わなければいけませんでした。ラジオから流れる初めて聞く天皇陛下の声に、国民は皆膝をついて放送を聞きました。

日本はGHQによって占領されました。普通敗戦国のトップはその責任を逃れようと必死になります。しかし、昭和天皇はGHQの最高司令官マッカーサーに対し、『戦争の全責任は私にある。私は死刑も覚悟しており、私の命は全て司令部にゆだねる。どうか国民が生活に困らぬよう、連合国にお願いしたい。』と述べました。この天皇の自分をなげうつ勇気と誠実な態度に、骨の髄まで感動し、『日本の最上の紳士』だとマッカーサーは敬服しました。『あんな誠実な人は見たことがない』と発言したと言われています。

日本はGHQによって軍を持たない国になり、昭和の時代に日本は生まれ変わりました。

昭和天皇

大正天皇と皇后九条節子の第一皇子として、1901年4月29日に東京都港区の東宮御所で誕生しました。学習院初等科の頃は、学習院院長・乃木希典に厳格な教育を受けました。1916年立太子礼を経て皇太子となり、2年後、久邇宮良子女王が王太子妃に内定します。1919年、満18歳となった年に成年式が行われました。大正天皇が病気で床に伏せると、摂政に就任し、大正天皇の代わりに皇室業務を行うようになります。1924年には久邇宮良子女王と結婚します。

1926年12月25日、大正天皇が崩御すると、第124代天皇となり、元号が大正から『昭和』になります。終戦までは国策の決定に深く関与していましたが、戦後施行された日本国憲法によって、天皇は『日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴』『国政に関する権能を有さない』とされました。それまでGHQによって統治されていた日本でしたが、1952年4月28日のサンフランシスコ講和条約が発効され、日本が主権を回復しました。昭和天皇は報告のため、伊勢神宮、神武天皇の畝傍山稜、明治天皇の伏見桃山稜、靖国神社をそれぞれ参拝しました。

昭和の終わり

天皇としての公務をしながら、生物学の研究をして業績を上げました。1981年には新年の一般参賀の時、初めて国民に向けてお言葉を述べました。それから毎年一般参賀で国民の前に姿を現し、お言葉を述べられています。1986年には神代を除く、歴代天皇では最長の在位帰還を記録し、在位60年記念式典が挙行されました。

1987年、9月22日、十二指腸乳頭周囲がんのバイパス手術のため、歴代の天皇としては、初めての開腹手術を受けました。それまでは鍼灸でさえもためらわれた天皇に対し、開腹手術をするということはかなりの衝撃的なことでした。決断したのは宮内庁長官の富田朝彦、執刀したのは東大医学部付属病院長の森岡恭彦でした。翌年の終戦記念日、全国全歿者追悼式に出席したのが公に姿を見せた最後となります。

1989年1月7日午前6時33分、十二指腸乳頭周囲がんにより崩御。歴代天皇でもっとも長寿となる87歳でした。日本中が喪に服し、街中の照明は暗く落とされ、店内のBGMも静かなものに変えられたりしました。1989年2月24日、新宿御苑で大喪の礼が行われ、武蔵野稜に埋葬されました。ここに激動の昭和が終わりを告げ、一つの歴史が幕を閉じました。新しく『平成』の世へと、世の中は歩き始めます。