原爆・原子爆弾はウラン、プルトニウムなどの原子核が起こす核分裂反応で爆発を起こす核兵器です。世界でたった一国、日本が第二次世界大戦で2度も投下され、一瞬にして死の街と化した過去があります。この原爆投下は人類の歴史に刻まれ、2度とあってはならないことだと叫ばれています。にも関わらず、原爆所有国がなくならないのが現実です。
原子爆弾に使用されているのは、ウラン235やプロトニウム239です。ウラン型は広島への投下で使われた原爆です。プロトニウムのタイプは長崎に投下されました。長崎に投下された原子爆弾は、広島の原爆の1.5倍の威力があり、爆心地が山に囲まれた盆地でなかった場合、広島の被害よりも大きなものとなっていただろうと言われています。
1,945年8月6日午前8時15分17秒、アメリカ合衆国が広島に向けて、ウラン型原子爆弾『リトルボーイ』が投下されました。
爆撃機エノラ・ゲイの爆弾倉から自動投下されたリトルボーイは、横向きにスピンしながら落下していきます。間もなく安定翼が空気を掴み、約43秒間放射線を描きながら落下し、広島上空、高度約600mで核分裂爆発を起こしました。広島市街は全滅し、考えられないほどの数の人々が、一瞬にして命を奪われました。
原爆の爆風は、前面に衝撃波を伴いながら、爆心地の殆どの家屋を破壊しました。耐震設計がなされている鉄筋コンクリート建築以外の建造物は爆風圧で全壊しました。この爆風は、台風の爆風エネルギーの1,000倍になるものでした。
核分裂で火球が出現し、その表面温度は数千度になりました。地上数百メートルの地点に太陽が現れたようなものです。熱線は赤外線として、爆発後3秒間に大量に放出されました。爆心地の地表が受けた熱線は、太陽エネルギーの数千倍に匹敵します。照射を受けた爆心地附近の表面温度は3,000~4,000度に達し、屋根の瓦は溶けて泡立ち、木造家屋は自然発火しました。
核分裂反応により、放射線が生成されます。原爆投下後、広島赤十字病院のまだ使っていないレントゲンフィルムが全て感光していたことから、落とされた爆弾は新型爆弾である、原子爆弾だと判断することができたのです。
原子爆弾が炸裂したのは低高度だったため、発生した原子雲であるきのこ雲は地面にまで達し、爆心地に強烈な誘導放射能をもたらしました。きのこ雲は熱による上昇気流にのって急速に上昇し、熱気が湿り気をおびて上空で冷やされることによって雨を降らせました。大量の粉塵や煙を含むこの雲は、真っ黒で粘り気のある雨を降らせました。放射能を含む雨は、浴びた者を被爆させ、土や建物、河川を汚染しました。
1,945年8月9日午前11時2分、長崎市街中心部から3kmの地点に、プロトニウム型原子爆弾『ファットマン』が投下されました。当初は小倉市に投下される予定でしたが、天候が悪化したために急遽、第二投下候補地だった長崎に変更されました。熱線や爆風が山で遮断されて広がらなかったため、広島の被害よりも規模は小さかったのですが、その威力は広島の1.5倍もありました。広島で被爆し、親戚を頼って長崎に疎開して2度目の被爆をした人、出張で長崎を訪れていた人、実家のある長崎に帰ってきていた人などが、二重被爆をするという、特異な例もありました。
原爆症は、原子爆弾によって被災して生じた健康障害のことです。原爆でケガをした人の症状はどれも悲惨で、目を覆いたくなるようなものばかりでした。背中の皮膚がめくれて垂れ下がり、腰の部分でぶら下がっている者、腕の皮膚がめくれて、爪の先でかろうじてつながっているもの、目が飛び出てしまった者、腹が裂けて内臓が飛び出てしまった者、ガラスの破片が頭から顔、つま先まで突き刺さった者など、地獄絵図のようでした。こうした者の殆どが、被爆してから数日のうちに死亡してしまいましたが、中にはそうではない人もいました。爆心地から離れて被爆した人、原爆投下直後に、救援のために現地に入って被爆した人、母親の胎内で被爆した人もいます。こうした人は、一見健康そうに見えて、突然発症します。だるさを感じた後に突然目が見えなくなったり、節々に痛みを感じた後に死亡したりしました。きれいに治ったと思っていたやけどの跡が盛り上がり、ケロイドになってしまい、治療しても何度も再発をするケースもあります。被爆から数年後以降に、白血病を発症して死んでいった人も少なくありません。現在でも原爆症で苦しんでいる人は数多く存在します。平和になったように見える現在でも、戦争の爪あとはなくならずに残っているのです。
原爆症の区分 |
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放射線被爆による急性放射線障害 |
放射線被爆による晩発生障害(白血病、白内障、瘢痕性萎縮による機能障害等) |