大隈重信は第8代・第17代の内閣総理大臣でもあり、現在の早稲田大学である、東京専門学校の創立者として、歴史に名前を残しています。伊藤博文をライバル視していて、別邸を構えた60m先に伊藤博文が住んでいて、別な場所に別邸を建て直した話や、伊藤がハルビンで暗殺されると、華々しい死に方をしたと、本気でうらやんだとのエピソードが残されています。
1,838年、佐賀城下会所小路で、知行300石の石火矢頭人(砲術長)を務める佐賀藩士・大熊信保。三井子夫妻の長男として生まれました。幼名は八太郎と言います。7歳の頃、藩校の弘道館に入学しますが、儒教教育を受けますがこれに反発。1,854年に同士らと藩校改革を訴えますが、翌年、南北騒動をきっかけに退学になり、後に復学の許可が出ますが学校には戻りませんでした。1,856年、蘭学寮に展示、後に鍋島直正にオランダの憲法について教え、蘭学寮を合併した弘道館の教授に着任して蘭学を教えました。
1,865年、佐賀藩校英学塾『致遠館』で、福島種臣と共に、教頭格になって生徒の指導にあたりました。また、校長でもあり。宣教師でもあったグイド・フルベッキに英語を学びました。このときに、アメリカ独立宣言や新約聖書を知り、大きく影響されました。
明治維新では、徴士参与職、外国事務局判事に任命され、キリスト教禁止令について、イギリス公使との交渉で手腕を発揮しました。1,869年から会計官副知事も兼任するようになり、新貨条例の制定や、高輪談判の処理など、金融行政にも携わりました。1,870年、参議を命ぜられ、1,873年、大蔵省事務総裁、やがて参議兼大蔵卿になりました。大隈の下には若手官僚の伊藤博文や井上馨らが集まり、大隈の私邸で政治談議にふけり、大隈の自宅を『築地梁山泊』と呼んでいました。
民部省を大蔵省に吸収合併させて一大官庁とし、地租改正や殖産興業政策を推進しました。西南戦争では、支出費用の調達や、その後の財政運営に携わっています。国会開設意見書を提出するなどしながら、かつての盟友、伊藤博文らと対立し、自身の財政上の失敗もあり、1,881年に参議を免官となりました。3日後、辞表を提出しています。
伊藤博文は大隈重信の外交手腕を評価していて、不平等条約改正のために、政敵となっていた大隈を外交大臣として選出しました。外国人判事の導入計画が大反対され、1,889年には国家主義組織の一員、来島恒喜に爆弾を使った襲撃を受け、右脚を失ってしまい、外務大臣も辞職します。
板垣退助らと1,898年に憲政党を結成し、薩長藩閥以外で初めて内閣総理大臣を拝命し、日本で始めて政党内閣を組閣します。しかし、旧自民党と旧進歩等の対立が生まれ、文部大臣の尾崎行雄が協和演説事件を起こして辞職すると、後任を巡って対立は激化していきます。1,907年、一度政界を引退し、早稲田大学総長に就任し、文化事業として、大日本文明協会会長としてのヨーロッパ文献の翻訳事業、南極探検隊後援会長の就任などを精力的に展開しました。大正時代に入ってから政界に復帰しますが、1,914年に2度目の内閣総理大臣に就任、第一次世界大戦では対独宣戦布告を行いました。総理大臣でありながら外務大臣も兼任するなどして奮闘していましたが、内閣は国民の支持を徐々に失っていきました。更に元老が内閣に対する圧迫の激しさを増したことから、遂に内閣は総辞職し、これに合わせて大隈重信も政界から完全に引退しました。退任時の年齢は満78歳6ヶ月で、2,008年現在、日本の歴代総理大臣では最高齢の記録になっています。
伊藤博文をライバル視していたことは有名ですが、早稲田大学開校式典において、伊藤博文が『大隈君とは色々競ってきたが、教育機関を自ら作ったという点ではかなわない。』と述べたことに、とても満悦しました。また、口癖があって真似される政治かも少なくないですが、大隈重信には『~であるんである』という口癖がありました。時には『~であるんであるんである』などとなってしまっていたようです。合理的な考えの持ち主で、それまでの日本の暦を、現在使われているグレゴリオ暦に変えたのも大隈重信です。
1,922年1月10日、早稲田においてその人生を終わらせますが、告別式を自邸で行った後、初めて日比谷公園で国民葬が行われました。『国民葬』の名にふさわしく、約30万人の一般市民が参列し、会場からあふれた人々は、さらに沿道にもあふれ、数多くの市民が大隈との別れを惜しみました。その3週間後に同じ場所で行われた、山縣有朋の国葬では、政治関係者以外人もまばらで、翌日の新聞には、『民抜きの国葬』『がらんどうの寂しさ』などと皮肉ったほどです。