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大久保利通

日本の歴史の方向を大きく動かした明治維新ですが、その明治維新の元勲として、西郷隆盛、木戸孝允らと並んで、『維新の三傑』と呼ばれているのが大久保利通です。武士から政治家になり、日本の政界に大きな影響を与えた人物でもあります。余談ですが、第92代内閣総理大臣の麻生太郎氏は、大久保利通の曾孫にあたります。

幕末

大久保利通

大久保利通は1,830年、薩摩国鹿児島城下高麗町で、琉球館附役の薩摩藩士・大久保利世と福の長男として生まれました。幼名は正袈裟と言います。幼い頃に加治屋町に移り住み、西郷隆盛、海江田信義らと共に学問を学びました。15歳で元服し、通称を正助とします。

藩の記録所書約助として、1,846年から出仕します。1,850年のお由羅騒動と呼ばれるお家騒動では、利通は免職・謹慎処分となりました。島津斉彬が藩主となると、利通は復職して、藩内組織の精忠組の領袖として活躍します。1,858年に斉彬がこの世を去り、新しく島津茂久が藩主になると、その父・忠教に接近し、1,861年に御小納戸役に抜擢されます。家格も一台新番となりました。1,865年、利通に改名しています。

京都の政局に関わるようになり、公武合体政策を公家の岩倉具視らと画策し、一橋慶喜の将軍後見職、松平慶永の政事総裁職就任などを進めました。政治の中枢として西郷隆盛とともに活躍し、徳川慶喜が大政奉還を行うと、王政復古のクーデターを岩倉と共に計画して実行に移りました。

明治維新後

1869年、参議に就任し、廃藩置県などの中央集権体制を確立します。1,873年、内務省を設置して、利通が初代内務卿として実権を握ると、徴兵令や地租改正などを行いました。利通に権力が集まるのは独断的でよくないとの批判も集中していましたが、現在の霞ヶ関官界は内務省を設置した大久保利通によって築かれたものなのです。

1,877年には西南戦争で政府軍を指揮し、その後、宮内卿(宮内庁)に就任して、明治政府と天皇の一本化を描いていました。

大久保利通の最期

1,878年5月14日、二頭立ての馬車で、明治天皇に謁見するために赤坂仮皇居に向った利通は、紀尾井坂で石川県士族・島田一郎ら6名に馬車を襲撃されます。馬の足を日本刀で切られ、御者の中村太郎が刺されました。次に乗っていた利通を馬車から引きずり出そうとしたところ、『無礼者!』と一喝しましたが、切り殺されてしまいます。介錯として首に突き刺された刀は、地面にまで突き刺さったと言われています。享年48歳でした。島田ら6名は、悪者の命を奪ったことについての理由を書いた文書を手に自主しましたが、2ヵ月後に打ち首になりました。

大久保利通の人柄

利通は大変な愛煙家で、朝晩子供らがパイプを掃除しなければ、詰まって使えなくなってしまったほどです。パイプも朝用と夜用と使い分けていました。漬物好きで濃い玉露も好んで飲みました。


絶対権力者

大久保利通

口数が少なく、人を圧倒する威厳を持ち合わせていた人物で、感情に左右されることなく、冷静に物事を見通すことができる人だったため、利通の目の前で意見できる者はいなかったと言われています。若い頃から何事にも恐れず、勇気があると言われていた山本権兵衛も、利通の前では意見が言えず、人斬り半次郎の異名で周囲に恐れられていた桐野利秋は、まともに話していたのでは何も言えないので、酔っ払った勢いで意見してやろうとしましたが、利通に一喝されただけですぐに引き下がってしまうほどでした。

利通が内務省に登庁し、廊下に靴音が響くと、それまでお喋りしていた職員らは私語をやめ、ざわついていた庁舎内が物音一つせず、水を打ったように静まり返ったと言います。利通没後の帝国会議では、答弁する板垣退助に対して野次が飛び、怒号で騒然となる中、とある議員は『大久保卿であればこんなことにならないのに』と、その威厳を偲んだと言われています。利通の部下らは、利通没後の内務省は、伊藤博文内務卿の部屋で他の議員らが盛んに夕べの布団の中での話をしたり、仲居が出入りするようになったりと、堕落したと嘆いていたそうです。かつての盟友、西郷隆盛が挙兵し、亡くなった知らせを受けると、号泣して家の中をぐるぐると歩き回ったと言う一面も見せています。

家族思い

政治の世界では威厳があって恐れられていた利通ですが、家族に対してはとても愛情を持って接しており、家族思いであることが分かります。出勤前の忙しい時間の中、10分ほどの短い時間を、娘を抱き上げて慈しんだと言われています。利通が自宅に馬車で帰って来ると、その音を聞いて次男と三男が先を争って玄関に出迎え、靴を脱がそうとして後ろに転がるのを見て笑って喜んでいました。家庭内では洋服を着て洋間で過ごし、非常に洋風な生活をしていました。