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大日本帝国憲法

大日本帝国憲法は、1,889年2月11日に公布され、近代立憲主義に基づく日本の憲法として、1,890年11月29日に施行されました。明治憲法、帝国憲法とも呼ばれることもあり、現行の日本国憲法と対比して、旧憲法と呼ばれることもあります。アジアで2番目になる近代憲法で、昭和22年に日本国憲法施行までの半世紀、一度も改正されませんでした。

大日本帝国憲法制定の動き

1,876年9月6日、明治天皇が『元老院議長有栖川宮熾仁親王へ国憲起草を命ずるの勅語』を発しました。『朕、ここにわが建国の体に基づき、広く海外各国を成法を斟酌して、もって国憲を定めんとす。汝ら、これが草案を起草し、もってきこしめせよ。朕、まさにこれを撰とす』としたのです。各国の憲法を研究して、憲法の下書きして文案として作成するようにと銘じたのです。これによって元老院は憲法取調局を設置し、1,880年、『日本国国憲按』を具体的な案として提出しました。同時に、大蔵卿・大隈重信も『憲法意見』を提出しています。これらはベルギー憲法やプロイセン憲法の影響を強く受け、皇帝の国憲尊主の契約、議会の強い権限などが定められていて、岩倉具視や伊藤博文らの反対で、採択されることはありませんでした。

憲法制定後の事件

1,891年、当時のロシア皇太子・ニコライが日本を訪問していましたが、滋賀県大津市で、警備中の巡査・津田三蔵にニコライが切りつけられる事件がありました。事件が明治天皇に知らされ、誠意を表すためにすぐにニコライのもとに駆けつけています。この事件でロシアとの関係悪化を恐れた政府は、皇族に対して危害を加えると言う、刑法第116条に規定する大逆罪の適用と、被告人津田を極刑にするよう司法に圧力をかけました。極刑に反対する意見があれば、戒厳令を発してでも断行すべきと伊藤博文は言っています。

司法の判断

刑法第116条は、日本の皇室に対して適用されるもので、この事件のように外国の皇族に対するものではありませんでしたし、また、こういった犯罪も想定されていませんでした。法律を守るのであれば、ニコライを一般人と同じ扱いにしなければいけませんでした。一般人に対し、ケガを負わせただけで極刑を宣告するのは不可能でした。もちろん、心情的に裁判官の中でも極刑にすべきという意見が多かったのは事実です。

現在の最高裁判所、大審院院長の児島惟謙は、法治国家として法は尊守すべきものであるとする立場から、政府の圧力に対し、『刑法に外国皇族に関する規定はない』と反発しました。結局、被告人津田に対しては、刑法292条を適用し、無期徒刑(無期懲役)の判決が下されました。