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日露戦争

日露戦争は1,904年2月に開戦し、1,905年8月の18ヶ月間、日本とロシアとの間で繰り広げられた戦争です。かのナポレオンでさえ敗退させた世界でも屈指の軍事大国のロシアに対し、小国日本が勝利するとは同盟国だったイギリスですら思わず、日本の歴史だけではなく、世界の歴史を転換させた一大事件でもありました。

日露戦争の経緯

朝鮮半島での南下政策を取ったロシアの手は、満州・朝鮮にまで伸びてきました。朝鮮半島の安定が侵害されると危惧した日本は、ロシアに対して交渉を始めます。日本側からは、朝鮮半島を日本、満州をロシアの支配下にするという妥協案を出します。しかし、ロシア側から見ると、ロシアの朝鮮半島における利権を妨害される恐れのある妥協案に首を縦にふることはありませんでした。戦争に発展したとしても、ロシアは日本など恐れてもいなかったのです。ロシアの日本に対する答えは、朝鮮半島の北緯39度以北を中立地帯にし、軍事目的で利用することは禁止するという提案でした。日本側から見ると、これは朝鮮がロシアの事実上の支配下になり、日本の独立も危機的になりかねないと判断しました。シベリア鉄道が複線化すると、ヨーロッパに配備されているロシア軍の派遣も容易になってしまうので、その前にロシアと戦うことへの国論が傾きました。1,904年2月、日本の外務大臣がロシアのローゼン公使を外務省に呼び、事実上戦争を意味する国交断絶を言い渡しました。

日露戦争開戦

1,904年2月8日、日本海軍駆逐艦が、リシア旅順艦隊への奇襲攻撃をすることで戦闘が始まりました。2月10日には、日本政府からロシアに対し、宣戦布告がされました。ここに日露戦争が開戦されます。日本の連合艦隊との正面決戦を避けたロシア旅順艦隊は、旅順港に待機します。当時最強と恐れられていたバルチック艦隊が旅順艦隊と合流すれば、ロシア側の戦力は圧倒的なものになり、制海権は奪われてしまいます。連合艦隊は旅順港に古い船舶を沈めることで封鎖しようとしましたが失敗に終わりました。連合艦隊の機雷が旅順艦隊の戦艦を撃沈し、旅順艦隊司令官マカロフ中将を戦死させるなどしましたが、反対に日本海軍の戦艦『八島』『初瀬』が機雷で沈められ、更にはウラジオストク巡洋艦隊が、日本軍の輸送艦『金州丸』を沈めるなど、船舶による補給に頼っていた日本軍を悩ませることになります。

黄海海戦・遼陽会戦

鴨緑江会戦では日本軍がロシア軍を破り、南山の戦いではロシア軍陣地を攻略します。かなり堅固な陣地で、第二陣では4,000人もの兵士が命を落とし、東京大本営では損害の大きさに桁を一桁間違っているのではないかと疑ったほどです。遼陽を目指した日本軍は、南下してきたロシア軍隊を得利の戦いで撃退し、続いて大石橋の戦いでも勝利を治めました。東郷平八郎率いる連合艦隊と旅順戦艦との間で黄海海戦が繰り広げられましたが、主力艦を撃沈するまでには至りませんでした。乃木大佐率いる第三軍は、旅順攻囲戦を開始。ロシアの近代的要塞の前に、1万5,000人という大損害を受けて失敗に終わります。遼陽会戦では日本軍が遼陽の占領に成功しますが、ロシア軍の撃破はできませんでした。

旅順攻略

第三軍は旅順攻囲戦を続けていましたが、日露長軍共に数多くの損害を出す激戦の末、日本軍が203高地を占領、ロシア軍は戦力を決定的に消耗してしまいました。さらに、要塞東北正面の堡塁軍を攻略し、結果ロシア軍旅順要塞司令官のステッセル中将が降伏しました。

奉天会戦

日本軍はロシア軍が拠点としている、奉天に向けた大作戦を開始します。ロシア軍の猛攻に、崩壊寸前になりながらも前身を続け、ロシア軍司令官クロバトキンは軍に撤退を指示。日本軍は奉天を占領することに成功します。しかし、ロシア軍の撃破は成功せず、両軍ともに大きな損害を受け、その後は四平街附近でにらみ合いが続きました。

日露戦争の決着

日露戦争に決着がついたのは、日本海海戦でのことです。日本海海戦において、ロシアのバルチック艦隊は日本軍連合艦隊と激突することになります。東郷平八郎の優れた戦術を始め、見事な作戦、第二艦隊による追撃、駆逐隊による魚雷攻撃作戦、世界最強と言われる下瀬火薬、伊集院信管、新型無線機、世界で始めての斉射戦術、最高水準の高速艦隊運動などにより、欧州最強と謳われたバルチック艦隊を圧倒し、滅ぼしてしまいました。

バルチック艦隊の司令部は丸ごと日本軍の捕虜になり、一方的な連合艦隊の圧勝に列強諸国は驚愕し、ロシアの脅威に怯えていた国々は熱狂しました。これにより、日本側の制海権が確定しました。