伊藤博文は、初代総理大臣として日本の歴史に名前を残しているだけではなく、かつては千円札に肖像画が使われるなど、小さい子供でも、名前は知らなくても顔は知っているという人物でした。
1,841年、周防国熊毛郡の農家、林十蔵・琴子の長男として生まれます。幼名は利助と言いました。生まれた家は貧しく、12歳で奉公に出ています。父・十蔵が、萩藩の武家奉公人、水井武兵衛の養子になり、武兵衛が周防郡佐波郡相畑の武士、伊藤氏の養子となったことで伊藤直右衛門と改名したため、十蔵と利助も下級武士に並びました。吉田松陰の開く松下村塾に生に、高杉晋作らと倒幕運動に加わりました。
1,862年には志士として功績を残し、1,863年には長州五傑としてイギリスに渡航します。1,864年に四国連合艦隊による長州藩への攻撃が近いと知ると、急いで帰国して戦いの回避に努めますが叶わず、下関戦争が起こってしまいます。戦後は通訳として和平交渉に参加しました。
明治維新のあと、伊藤博文と改名します。英語が堪能なことから、参与、外国事務局判事、大蔵兼民部少輔、初代兵庫県知事、初代工部卿など、様々な明治政府の要職を歴任していきます。
大久保利通が暗殺されると、伊藤博文が内務卿を引き継ぎます。伊藤は憲法の制定や、調査のためにヨーロッパに渡り、憲法学者の講義を受けて帰国し、大日本帝国憲法の起草・制定では重要な役割を担いました。1,885年には近代的な内閣制度を創設しています。
政治が内閣制度に移行することになり、初代内閣総理大臣に誰が就任するのか注目されました。候補は二人。太政大臣の三條実美と、内閣制度を作り上げた伊藤博文でした。三條は藤原北家閑院流の嫡流、清華家の一つ、三條家の出で公爵であり、後期な身分です。一方の伊藤は、貧しい農民出身で、武士になったのも明治維新の直前という低い身分の出身です。その差は歴然としており、太政大臣に代わる内閣総理大臣を決める会議では、誰もが口を閉ざしていました。そんな中、伊藤の盟友であった井上馨が口火を切ります。『これからの総理は赤電報(外国の電報)くらい読めなくてはだめだ。』すると山縣有朋が、『そうすると伊藤君より他にはいないではないか。』と賛成し、三條支持派も返す言葉がなくなってしまいます。英語が決定打となり、伊藤博文は初代内閣総理大臣となったのです。
1,905年、大韓帝国が大二次日韓協約によって日本の保護国になり、伊藤博文は韓国統監府が置かれると、初代統監に就任しました。山縣有朋や桂太郎らは、韓国の直轄植民地化を急いでいましたが、伊藤は保護国家による実質的な統治で十分と考え、併合を反対する立場をとっていました。しかし、こうして反対意見を持っていたにせよ、統監であったということで韓国国民の怨みを買うことになるのです。
1,909年、統監を辞任し、枢勅院議長に復帰した伊藤博文は、非公式にロシア蔵相・ウラジミール・ココツェフと、満州・朝鮮問題について話し合うために、ハルビン駅を訪れていました。大韓帝国で日本の影響力が増したことに激しく憤っていた民主運動家の安重根がハルビン駅にいた伊藤博文を狙撃します。ただちに捕らえられ、極刑を受けます。68歳でした。自分を撃ったのが韓国人だと聞くと、伊藤は『俺を撃ったりして馬鹿な奴だ』と呟いたと言われています。伊藤博文の死は、それまで批判的だったマスメディアでさえも、『伊藤公の死は日本の大損失である、否世界の大損失であると叫び、明治維新の大功臣、憲法政治の大元首、古今無類の大偉人を失ひたりと嘆き』と、高く伊藤を評価しました。この事件の翌月、東京日比谷公園で国葬が営まれました。