明治維新は、江戸幕府の幕藩大政から、明治政府による倒幕運動、天皇親政の転換やそれに伴う戊辰戦争や改革のことを言います。明治維新は、日本をアジアで最初の採用的国家体制を行う近代国家へと変えていきます。日本の歴史が動いたときでもありました。
明治新政府は、幕藩体制の崩壊により、中央集権国家の確立を急ぐ必要がありました。太政官、大蔵省など、律令制の頃の名称も復活させました。しかし、実態は律令制のものとはかけ離れています。
王政復古の大号令により、総裁・議定・参与の三職が施行されましたが、当時の明治天皇はまだ年少だったため、補佐する体制が必要になります(それまでは摂生が行っていた)。そこで政体所が公布され、翌年には二官六省制が発足し、太政官と神祇官を置き、太政官の下に各省が置かれました。その後も民部省から工部省が独立したり、刑部省が司法省に改組されたりと、数多くの改変を必要としました。明治中央官制の改革は、明治17年の内閣制度の発足で、ようやく安定することになります。
立法府に関して、議会開設を木戸孝允らが声を挙げていました。1,881年には『国会開設の詔』が出され、伊藤博文らによって憲法制定の動きが本格化しました。1,889年に大日本国憲法が公布されると、翌年に帝国議会が発足し、本格的な立憲君主制・議会制民主主義国家がアジアで初めて完成しました。
明治政府の地方行政は、京都・長崎・函館を政府直轄の『府』とし、徳川家を駿府藩に領地を移す以外、以前の藩体制がそのまま続けられていました。しかし、中央集権化による政府の地方支配強化は、必要なことでもありました。そのためには藩の存在は邪魔なものでしたが、藩側でも財政の逼迫が続き、政府が動かなくとも廃藩を申し出る藩が相次ぎました。やがて廃藩置県が実施されて府県制度が設置になり、中央政府から知事を派遣する制度も作られました。旧幕府時代には、独立国でありながら薩摩藩の支配下にあった琉球王国は、廃藩置県の際に日本国家に取り込まれ、琉球藩が置かれることになり、1,879年に正式に沖縄県として編入されました。
廃藩置県などの改革を経て中央集権が整い、旧幕府時代の制度をようやく改革できるときがきました。同時に宮中の改革も行われることになり、旧来の宮中職や女官を廃止、明治天皇を改革君主にふさわしい天皇に養育するため、士族を中心とした侍従らがそれに関わりました。
江戸幕府下の『士農工商』を廃止し、士族として旧武士階級を。指令外を平民として、四民平等を謳いながら、旧公家や大名、一部の僧らには、新たに華族としての特権階級を与えると同時に、宮内省の支配下に置くことにします。学生改革、地租改正、徴兵令、太陽暦の採用、司法制度の整備、断髪令など、数多くの改革が行われました。あまりにも急激に行われたために混乱も生じ、大久保利通の下に設立された内務省によって、諸改革が整理されました。
政治だけではなく、庶民の間でも文明開化の動きや、それまでなかった食肉の普及、鉄道の開通など、時代はどんどん動いていました。政府主導の産業育成も始まり、富岡製糸場などが作られ、西洋式の工業技術が導入されました。貨幣制度も改められ、『円』を通貨単位として導入し、通貨発行権を独占する中央銀行として、日本銀行が設立されます。郵便制度、電信網の整備、鉄道や船舶運輸、などの整備も行われました。西洋文化を取り入れるために、技術指導、教育、完制・軍制整備などのために、お雇い外国人と呼ばれる外国人が雇用され、近代国家建設の大きな力となりました。
江戸時代まで祭政一致であったことから、明治に入ってから神仏分離例が出されました。仏教と神道を、習合されていたものから両者を分離するということでした、耶蘇教とされていたキリスト教は引き続き厳禁とされ、キリスト教の指導者や信者は分散移住させられました。1,871年に岩倉具視特命全権大使ら一行が欧米各国を歴訪した際、耶蘇教禁止令が各国で非難を浴び、条約改正の交渉をするうえで障害になるとの報告から、翌年正月に、キリスト教徒赦免の建議をしました。各藩に移住させられた教徒らは帰村が許されました。