『徒然草』は、吉田兼好によって書かれた随筆で、清少納言の『枕草子』、鴨長明の『方丈記』と共に、日本三大随筆の一つとして評価されています。徒然草も吉田兼好のことも国語の授業で習いますが、以前は教科書にも吉田兼好と記載されていましたが、現在の教科書では『兼好法師』と記載されるようになりました。
有名な序段、『つれづれなるままに……』から始まる徒然草。鎌倉時代の1,330年8月から翌年9月頃にまとめられたと言われていますが、他にも数多くの説があり、はっきりしたことは分かっていません。西暦からすると、兼好が中年期に書いたことになりますが、若い頃に書いた文章も含まれているのではないかと言われています。現在の日本語の元になる文体の和漢混淆文と呼ばれる、平かなによる和文と、漢文の書き下しの漢文訓読体が混じった文体と、かな文字が中心の和文が混在して書かれています。有名な『つれづれなるままに……』の序段を含め、全部で244段からなります。『つれづれなるままに』とは、退屈しのぎにという意味ですが、退屈しのぎに書いたのではなく、思索や雑感、逸話などを通じて、人はいかに生きるべきかを探求している作品になります。内容は、歌人、古典学者、能書家であった吉田兼好らしく、多岐に渡ります。吉田兼好が住んでいた場所が、仁和寺のある双が丘だったため、仁和寺に関係する説話が多く書かれています。
今でこそ高い評価を受けている吉田兼好ですが、徒然草を執筆しても少なくとも100年は注目されていませんでした。室町時代に入ってから正徹という僧が注目し、江戸時代には加藤盤斎の『徒然草抄』、北村季吟の『徒然草文段抄』などの注釈書が書かれ、江戸の町人らに愛読され、江戸文化にも多大な影響を及ぼしました。写本は江戸時代のものが多く、反面、次の時代の室町時代のものは非常に少ないのです。
吉田兼好は、1,283年に生まれた、歴史で言うと、鎌倉時代から南北朝時代の随筆かで歌人です。本名を卜部兼好(うらべけんこう)と言い、兼好法師とも呼ばれていました。教科書では全て『兼好法師』となっています。卜部家は後に吉田家と平野家にわかれ、兼好は吉田家系だったことから、通称吉田兼好とされるようになりました。卜部氏は古代より占いをしており、神職の家で神司官を出していました。実際、兼好の父も、吉田神社の神職をしていました。兼好自身は、後宇多院の護衛をする武士として兼好(かねよし)として仕えていて、出世もしたのですが、上皇なきあと出家し、その時に兼好と名乗りました。歌人としては鎌倉時代から南北朝時代にかけて活躍し、徒然草は当時の社会風潮などが垣間見られる貴重な史料にもなっています。1,350年5月、68歳でこの世を去ったと言われています。
兼好が使えていた後宇多天皇は、後醍醐天皇の父であり、元の2度に渡る襲来を見てきた人物です。後宇多天皇なきあとも、兼好は鎌倉幕府の倒壊を見てきたのでしょう。その時期にかかれた徒然草には、人の生死に関わるものや、世の無常に関する段が数多く見られます。元々兼好(かねよし)と名乗る武士でしたが、30代で出家し、比叡山で仏道修行に入ります。もちろん僧としての修行をしていましたが、そのかたわら、学問、文学にも関わっていて、僧として優れている人ではなかったようです。僧の修行や寺の生活に浸りきりになって俗世から離れて人々の生活を眺めていたわけではなく、むしろ、俗世間から離れない自分自身をそばで眺めているような、隠者と呼ばれる生活をしていたと言われています。そのため。吉田兼好の文学は、隠者の文学と呼ばれています。