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鎌倉幕府~終焉

長い日本の歴史の中で、源頼朝によって開かれた鎌倉幕府も、やがて終焉を迎えるときが訪れます。北条氏による執権が確立されてから、北条宗家を得宗と呼んでいたことから、北条氏による政治体制は得宗専制と呼ばれていました。

元との戦い

北条時宗

時頼なきあと、得宗を引き継いだのは息子の北条時宗でした。モンゴル帝国の第5大ハーン、クビライが高麗を通して朝貢を要求してきたのは1,268年のことです。朝廷は全てを幕府に任せますが、巻く腑は西国の防御を固め、回答しない方針を固めました。翌年も翌々年にもモンゴルから国書が届きますが、返書するようにとの朝廷の提案を退け、幕府は当初の方針のまま、無視を決め込みました。1,274年、モンゴルから元に国号を改め、九州北部に襲撃をかけてきます。数日で撤退するのですが、朝廷と幕府は一体となって国を守ることにし、西国の警護を再強化します。これにより、それまで幕府の手が及ばなかった朝廷側の支配地や本所一円からの人員や兵糧の調達ができるようになりました。これは幕府が全国的に権力を展開するきっかけにもなります。1,281年に再び元が九州北部を皮切りに、日本の侵略を試みてきますが、鎌倉幕府の頑強な抵抗によって侵略が滞り、そのうち嵐による大被害を受けて元は敗軍しました。

得宗専制

時宗は元との戦いの中で、非常事態での迅速な対処を建前にして、時間のかかる合議を行わずに、一門や側近である御案内らと自分達の考えだけで政策を決定していました。この御案内の中の頂点に立つ内管領が徐々に力を持ち始め、弘安期になると平頼綱と、有力御家人の安達秦盛が互いに張り合うようになりました。秦盛は幕府の経済基盤の充実を時宗の理解のもとに図り、御家人の地位を保証する政策を作ろうとします。しかし、1,284年に時宗が突然この世を去ると、翌年、平頼綱は秦盛を急襲して命を奪い、秦盛派の御家人を討伐しました。この事件で得宗専制は完成したとされています。一方朝廷では、後嵯峨天皇以後の皇位を巡り、大覚寺統と持明院統に分かれて幕府に皇位継承の調整を求めており、両統迭立という、交互に即位させるという原則を示して仲裁し、幕府からも朝廷に対し、徳政という政治改革を要求しました。この皇位継承と徳政の実施に関して、幕府と朝廷の対立が表面化するようになってしまい、再び朝廷内に反幕府の動きが潜在化することになります。

得宗専制の全盛期

時宗の後を継いだ北条貞時を平頼綱が補佐し、得宗専制の強化に力を注ぎました。成人した北条貞時は、政治姿勢を一変させて、恐怖政治を行っていた頼綱の権勢に不安を抱き始め、頼綱邸を襲撃して自刃へと追いやり、平頼綱一族を討滅しました。北条貞時は政権を取り戻し、得宗専制の一層の強化をはかります。頼綱政権で停滞していた訴訟の迅速な処理のため、引付衆を廃止して、貞時が判決の全てを下すことにしました。当初は迅速な訴訟の処理を歓迎していた御家人らも、独裁的な判決に対し、徐々に反発が高まっていきます。当時の徳政観念から、財物を元の持ち主に無償で返したりし、普及しつつあった貨幣経済に深刻な影響を与えました。一般の御家人層では異国警固番役や、長門警固番約などの負担を抱えながら、貨幣経済の普及に対応しきれず、分割相続による領土の細分化など、急速な細分化が進み、所領を増やす御家人もいた中、没落していく御家人もすくなくありませんでした。所領を売却や質入で失い、幕府の役目を仕えることができない武族御家人も増えていきました。こうした御家人や、彼らから所領を取得したりした武士や百姓は悪党化して、社会変動をより進展させてしまいました。

鎌倉幕府の終わり

北条高時

貞時が1,311年にこの世を去ると、子の北条高時が跡を継ぎますが、まだ9歳だったため、補佐役として、平頼綱一族の長岡高綱と、安達一族の生き残り、安達時顕が就きました。悪党と呼ばれる勢力が現れ、寺社からの要求や訴えが相次いでいましたが、長崎と安達の支える得宗政権は高圧的な姿勢を崩さずに対処し、成人した高時が政務についた時も、こうした態度を受け継ぎ、各地の地域独自の動きを権力で抑え込もうとしましたが、もはや地域の動きは抑えられず、次第に矛盾が大きくなっていきます。

倒幕運動

後醍醐天皇が即位すると、幕府ではなく、天皇中心の政治体制の再建を企てました。こうした姿勢は、皇位継承問題をもとに、幕府の得宗専制とぶつかりあうことになり、後醍醐天皇の暴動計画が露呈すると、側近の公家らが処罰されました。1,331年、倒幕を諦めていなかった後醍醐天皇は、再び計画を立てますがこれも事前に発覚。翌年隠岐島に流されました。この事件をきっかけにして、得宗専制に不満を持っていた楠正成や赤松円心など、悪党と呼ばれる武士らが各地で反幕府の兵を挙げるようになります。反幕府勢力の討伐のために、有力御家人の足利尊氏が京都へ派遣されますが、後醍醐側に寝返り、元弘の乱が起こり、笠置山・赤城城の戦い、千早城の戦い、六波羅攻略、鎌倉攻略を経て、遂に幕府軍は破れ、北条一門は東勝寺において滅亡しました。こうして後醍醐天皇の倒幕運動は成功を治め、京都に帰還して元弘の元号を復活させます。念願の天皇親政、建武の親政を始めますが、元弘の乱において、論功行賞で後醍醐天皇の側近が優遇されたのに対し、赤松則村はじめ、数多くの武士層が冷遇されました。こうした待遇が親政への支持を失うことになり、足利尊氏が離れていくことと、室町幕府誕生のきっかけへと結びついていくのです。