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方丈記

方丈記は鴨長明によって書かれた随筆です。鴨長明が晩年になり、日野山に一丈四方の方丈の庵を結んだことから『方丈記』と名づけられました。鎌倉時代に書かれたとされていますが、原本はなく、最古の写本が大福光寺本であり、研究材料とされることがあります。『徒然草』『枕草子』と合わせて三大随筆と言われていますが、方丈記は徒然草よりも100年も前に書かれています。和漢混淆文で日本の歴史の中で書かれた初めての作品で、乱世をどうやって生き抜くかという自伝的な人生論でもあると言えるでしょう。本文の流れとしては、移り行くものの儚さを冒頭で語り、災いについての記述が続き、最後には草庵での自らの生活が表現されています。末尾では、草庵での生活に愛着を抱くことは悟りへの妨害になると否定しています。『枕草子』や『徒然草』のような分段形式ではなく、一貫して流れるような筋を一息に展開させているのが特色です。

方丈記の概要

方丈記は、『序』から始まり、『安元の大火』『治承の辻風』『福原遷都』『養和の飢饉』『元暦の大地震』『大原野の住家』『方丈の宿り』『日野山の生活』『閑居の思い』『跋』からなります。防災の寒天から見ると、基調な史料ともなる方丈記の前半部分、天変地異について取り上げていきます。


『行く河の流れは絶えずして しかももとの水にあらず よどみに浮かぶうたかたは かつ消えかつ結びて 久しくとどまりたるためしなし 夜中にある人としみかと またかくのごとし』

有名な『行く河の…』という出だしで方丈記は始まります。『河』は『川』と違い、大きな川を表しますので、鴨長明が見ていた河も、大きな鴨川や高野川、宇治川などを見つめて、無常の思いをめぐらせていたのかもしれません。

安元の大火

1,177年4月28日午後8時頃、都の東南から火が出て、強風に煽られて、西北の方向に燃え広がります。朱雀門や大極殿などだけではなく、公卿の家も、町の人々の家も、一夜にして灰になってしまいました。焼け死んだ人や家畜も数多く、このような危険な京に家を建てるために資材を投じて、数多くのことで心労するのは馬鹿げていると嘆いています。

治承の辻風

1,180年4月、中御門大路と東京極大路の交差点のあたりで大きな竜巻が発生しました。周囲にあるものは全て風に飲み込まれ、屋根や家財道具は遠く離れたところまで飛ばされ、木の葉のように空に舞いました。家を壊されまいとしてケガをおった人、家を失った人も多く、人々の悲嘆を生みました。竜巻は南南西に向かい、現在の東本願寺のあたりで消滅しました。

養和の飢饉

1,181~1,182年の2年間に渡り、大きな飢饉がありました。人々は土地や故郷を捨て、山中に移り住みました。朝廷では様々な祈祷を行いますが、一向に効き目はありません。町の人々のお陰で生活が成り立っている都の人間は、財宝と食べ物を交換しようとしますが、誰も目をくれません。宝よりも、穀物の方が貴重だったからです。また、疫病も発生して、今歩いていたかと思うと、次には倒れているような有様で、町には餓死した人で溢れ、悪臭が充満します。仁和寺の僧は、餓死者と出会うたびに額に『阿』の文字を書き、仏縁を結ばせてあげました。京都だけで42,300人以上が餓死し、全国規模にすると想像を絶します。

元暦の大地震

1,185年7月9日、大きな地震に襲われます。山は崩れて河を埋め、海は揺れて大波が押し寄せて陸は海水で浸され、大地は裂けて水が噴出し、岩壁は崩れて谷に落ちました。ある物は崩れ、ある物は倒れ、この世のものとは思えない恐ろしさに驚愕し、3ヶ月も続いた余震に怯えていたのに、月日がたつと誰もそれを口にしなくなります。災いも過ぎれば忘れてしまい、無常であると嘆いています。

鴨長明

鴨長明

鴨長明は、(俗名かものながあきら)平安時代から鎌倉時代にかけての歌人であり、随筆家でもあります。加茂御祖神社(下賀茂神社)の神事を統率している、鴨長継の次男として生まれます。東大寺の僧で歌人でも合った俊恵の門下に学び、長明自身も歌人として活躍しました。希望していた河合社(ただすのやしろ)の禰宜(神社に奉職する神職の総称)の地位に就くことが叶わず、神職として出世していく望みが断たれてしまいました。後に出家し、蓮胤(れんいん)と名乗っていましたが、世の中には『かものちょうめい』として知られています。