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鎌倉幕府~北条氏

源頼朝が日本の歴史上初の武家政権を誕生させ、鎌倉幕府がはじまりました。望みが叶って初の征夷大将軍になることができましたが、始まったばかりの鎌倉幕府は、どう動いていくのでしょうか。源頼朝の正室、北条政子の助けもありながら、鎌倉幕府は動いていきます。

鎌倉幕府と北条氏

源実朝

源頼朝は鎌倉幕府を確立しましたが、1,199年、落馬が原因で突然この世を去ります。跡継ぎである源頼家が18歳で征夷大将軍となりますが、まだ若い頼家に対し、幕府の人間は政務を任せることに不安を覚えます。そこで、頼家に代わり、有力御家人が政務と裁判を行う『十三人の合議制』という政治体制を作り出しました。この体勢の中心にいたのが北条氏です。北条時政は頼家の母、北条政子の父であり、頼家からすると、外祖父にあたります。時政・義時父子は、他の有力御家人を次々と排除し、実権を握っていきます。1,203年、22歳で思い病にかかった頼家は、時政によって伊豆の修繕時に幽閉され、代わりに弟の源実朝が征夷大将軍に就くと、翌年、頼家はこの世を去ります。時政ら、北条氏の手にかかって命を落としたと言われています。当時、身内といえどもこうして命の奪い合いがあったのです。

北条氏

まだ若い征夷大将軍、源実朝を補佐し、北条時政は執権と呼ばれる地位について政治の実権を握ります。1,205年、娘婿の平賀朝雅を将軍にしようと画策した時政は、朝雅と対立する畠山重忠の命を奪い、実朝を将軍の地位から退かせようとしました。時政の息子、義時と北条政子はこの計画に反発し、有力御家人と手を組んで時政を引退に追い込み、時政が将軍にしたてあげようとしていた平賀朝雅を抹殺しました。その後北条氏権力を確立するために、義時が執権となりますが、対抗勢力として侍所別当の和田義盛が現れます。良し時の度重なる挑発に、和田義盛は横山党や三浦義村と手を結び、北条氏を打倒するために和田合戦と呼ばれる戦いを起こします。しかし土壇場になって三浦義村が北条氏側に寝返り、兵力不足になったにも関わらず、後に引けなくなった和田一族は将軍御所を襲撃し、鎌倉市街戦を2日間繰り広げます。兵力のある幕府軍に圧倒され、和田一族は滅びてしまいます。この勝利によって、北条氏の執権体制は強固なものになります。 武力紛争が絶えない中で、将軍・源実朝の命が奪われるという最悪の事態が起こります。頼朝の直径が断絶してしまい、幕府は親王を将軍にしてほしいとの要望を出しますが、後鳥羽上皇は拒否します。物事が順調に運ばない中、幕府は摂関家で頼朝の遠縁にあたる幼児、藤原頼経を新将軍として迎え入れました。これから2代に渡る将軍は、摂家将軍と呼ばれます。こうしたことから、事実上、幕府の実権は執権の北条氏が全面的に行うことになります。

承久の乱

後鳥羽天皇

武家政権である鎌倉幕府と、京都の公家政権の二頭政治が続く中、後鳥羽上皇は自分が独断で思うままに政治を動かしたいと考え、幕府の存在を疎ましいと感じていました。将軍である実朝の命が奪われる事件が起きるということは、幕府が混乱し、弱体化していると睨んだ後鳥羽は、幕府打倒を計画し、1,221年5月、遂に北条義時追討の院宣を発しました。後鳥羽はすぐに義時を討ち取り、関東武士達も犯行をやめて服従すると考えていたのですが、幕府側は頼朝から続く御恩を訴え、御家人の殆どが幕府側についてしまいました。さらに短期決戦策をとり、2ヶ月に満たない期間で朝廷郡を打ち破ってしまいます。

朝廷と幕府

朝廷に勝利した幕府は、戦いの後処理を始めます。首謀者として後鳥羽上皇、その系譜である上皇や皇子が流罪になり、当時の仲恭天皇は退位させられ、朝廷側についていた貴族や武士の多くが死罪となりました。人々は、朝廷の人間やそれについていた貴族や武士が処罰されたことに大きな衝撃を受け、朝廷と幕府の価値観が正反対になりました。朝廷を監視するための六波羅探題が置かれ、朝廷の威信は地に落ちてしまい、反対に、幕府の朝廷に対する支配力が強くなりました。承久の乱の後、次の天皇を誰にするか、朝廷は幕府に相談するようになり、朝廷と幕府の立場が逆転したといえます。

御成敗式目

北条泰時

北条義時が1,224年に、翌年には北条政子や大江広元など、鎌倉幕府の創業世代がこの世から次々と姿を消し、義時の子、泰時が執権となりました。世代交代期にはつきものの混乱を避けるため、執権の補佐役とも言える連署に叔父の北条時房をあて、政治意志決定の期間である評定衆を設置し、集団指導体制を設置しました。承久の乱の後、急激した訴訟事件に対して公平に処理するために、御成敗式目と呼ばれる明確な裁判基準を定めました。理解しやすく、実際的な法令と評価され、後の室町幕府も原則として、この法令を継承しています。こうした泰時の施策は、個人的な資質などに振り回されることなく、安定した政治結果を生み出すものでした。

親王将軍へ

泰時の孫、北条時頼は、泰時の執権政治を継承し、司法制度の充実に力を注ぎました。執権権力の強化と共に、裁判の公平化のために引付衆を設置しました。また、幕府に批判的な者はことごとく排除していきます。時頼の排除を企てた前将軍・藤原頼経と名越光時一派の幕府追放、有力御家人の三浦秦村一族討滅、幕府への謀反に加担した将軍・藤原頼嗣が退かされ、宗尊親王を新しく将軍として迎えることに成功しました。以降、代々宮将軍が迎えられ、幕府の政治に親王将軍は参与しないことが通例になりました。親王将軍の下で政治を思うままに行っていた北条氏は、北条宗家に政治権力を集中させていきます。時頼は病気のために北条氏支流の北条長時に執権職を譲りますが、変らず実権を握り続けました。こうして、政治の実権と執権の地位は離れたものになっていきます。