赤べこが、会津地方で玩具として作られ、親しまれるようになった由来となる伝説があります。
大同2年(807年)、会津地方柳津町の只見川を臨む、絶壁にある円蔵寺にいた徳一大師が、福満虚空蔵堂を建立する時に、多くの材木が上流の村から寄進されました。材木を運ぶための只見川は水が多く、運搬することは容易ではありませんでした。多くの人々が材木を運ぶために苦労をしていると、どこからともなく牛の群れが現れ、材木を運ぶのを手伝いだしました。たとえ牛と雖も、材木を運ぶことは容易ではありません。重労働のため、次々と牛が倒れて行く中で、最後まで働き通したのが赤い牛だったと言われています。そしてお堂が完成した日、石になって守り神になったと言われています。円蔵寺には、『撫牛』として、境内に牛の石像が祀られています。
この赤い牛にあやかり、壮健を祈り、疫病除けとして、昔から子供が産まれると赤べこの人形を贈る習慣ができ、その後、会津地方に疫病がはやったとき、赤べこのある家には疫病にかかる人はいなかったと言うことです。また、疫病にかかっている人に赤べこ人形を贈ったところ、間もなく全快したとも言われています。
こうして最後まで力強く頑張り通した牛にあやかって作られるようになった赤べこ人形ですが、元々は張子人形で、体の色である赤は、昔から魔除けの効果があると言われています。胴と首をつなぐ部分に独特の工夫が凝らされていて、首の周囲は余裕がとられています。頭は動かすと振り子のように動き、愛嬌のある顔が上下左右に動く動作を繰り返す様は、とてもユーモラスで可愛らしいものです。子供が産まれたら贈るという習慣の他にも、土産物としても人気のある人形です。
赤べこに千両箱を背負わせた『千両べこ』、打ち出の小槌の背負わせた『福べこ』、うっすらとピンク色の体をした寿の文字を背中に書いた『ももべこ』、このほかにも米俵を背負ったものなど、様々なものがあります。
赤べこの本体は紙でできています。ホウノキを小刀やのみで削り、木型を作ります。作った木型に何枚ものりで和紙を貼り、乾燥させます。完全に乾いたら、背や腹の部分を小刀で切り開き、木型を出します。もう1度和紙を張り合わせ、貝を粉にしてニカワでねった胡粉を下塗りします。さらに、赤い塗料をニカワで溶かし、上塗りをしていきます。乾いたら模様を絵付けし、首を取り付けます。首が揺れるように首の後ろの部分に錘をつけ、糸でつるします。
会津柳津温泉のホテルに『赤べこ博物館』があります。小さな小さな博物館で、もしかしたら見過ごしてしまうほどですが、数多くの赤べこ関連のものを展示しています。所要時間30分くらいで、赤べこへの絵付け体験もできます。また、古くなって粗末に扱われている赤べこや、古い赤べこ、使わなくなった赤べこなどを『赤べこ供養』として供養してくれますので、自宅で眠っているものがあったら送ってみましょう。(リンクページをご覧ください。)この他にも、会津地方には赤べこの絵付け体験のできる工房が数多くあります。中には100年以上、赤べこの作り方を伝えている所もあるようです。