聖徳太子
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聖徳太子ゆかりの地

聖徳太子とゆかりのある地で分かりやすいのが、地名に「太子」とついているところです。太子が眠る場所、大阪府太子町、法隆寺の別院として建てられた斑鳩寺のある、兵庫県太子町などです。現在の関西地方と深い関わりがあったようですね。

聖徳太子と斑鳩の里

現在の奈良県生駒郡斑鳩町、大変ゆかりのある地です。斑鳩(いかるが)は聖徳太子が住んでいた場所で、西暦605年に斑鳩宮を作って飛鳥から移住しました。現在の法隆寺の東院伽藍の場所がそうです。法隆寺は別名斑鳩寺とも呼ばれています。太子は法隆寺のまわりに斑鳩宮を築いたと言われています。斑鳩の里には法隆寺をはじめ、発起寺、中宮寺などもあり、太子と深い関わりのある地なのです。

達磨寺

奈良県北葛城郡王寺本町に達磨寺はあります。本尊を千手観音菩薩、達磨大師、聖徳太子としている、臨済宗のお寺です。日本書紀などの記録によると、推古21年12月に、太子が道中で大変身なりの汚れた飢えで倒れている人を見つけました。憐れんだ太子は自分の着ている物をその薄汚れた者にかけてやりました。翌日、気になって使いの者に様子を見に行かせると、すでにその者は冷たくなっていて、太子は手厚くほうむったのです。後日確認すると、棺の上には太子が与えた衣服だけが残されていました。その倒れていた薄汚れた人物は、達磨大師が姿を変えたものだとされ、人々は「聖人は聖人を知る」と口々に噂したそうです。そして、この棺の上に達磨塚を作り、さらに、僧が修行を行う精舎を建てました。聖徳太子が木で掘った、達磨の像を安置したというのが達磨寺のはじまりとされています。

聖徳太子が眠る場所

聖徳太子、厩戸皇子が永遠の眠りについている場所は、大阪府南河内郡太子町にある、叡福寺です。この地には厩戸皇子の父、用明天皇や推古天皇陵もあり、一族とも深い関わりのある地になります。叡福寺の境内を北に見ると、聖徳太子廟(厩戸皇子墓)があり、母である、穴穂部間人皇后(あなほべのはしひと)と、妻である菩岐々美郎女(ほききみのいつらめ)も一緒に眠っています。後世にこれだけ名を馳せている人物にも関わらず、ひっそりと眠っている、そんな印象を受けるお墓です。この太子町には「竹内街道」と呼ばれる通りがあり、飛鳥時代に飛鳥京と南波を結ぶ日本で一番古い官道とされています。シルクロードの行き着く終わりの道として大陸文化を伝えてきたこの通りは、現在でもひっそりと存在しています。余談ですが、同じ太子町には小野妹子の眠る場所もあります。とても小さく、ひっそりとしていて、歴史に名前を残した人物の眠る場所とは思えないくらいです。

大阪府太子町

聖徳太子が永遠の眠りについている、この太子町の紹介をしましょう。大阪府の東南部に位置しているこの町は、とても緑豊かで歴史のロマンに包まれた町です。東に位置する「二上山」は町のシンボルになっていて、万葉集でも詠われている山です。二上山の南麓には、現在、竹内街道と呼ばれる道が通っていて、小野妹子はこの竹内道を通って遣隋使として、遠くの大陸を目指しました。逆に、大陸からきた人々は、この道を通って飛鳥へと旅をしました。太子町の辺りは「近つ飛鳥」と呼ばれ、多くの古墳が造られました。太子町のまわりが「王稜の谷」と呼ばれるのはここからきています。その中心になっているのが、敏達、用明、推古、孝徳稜と聖徳太子御廟で、この5人を梅の5枚の花びらになぞらえて、梅鉢御稜と呼ばれているのです。昭和31年9月30日に、磯長村と山田村との合併により、町名が変わりました。太子町の由来はもちろん、聖徳太子にちなんだものです。



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