いない説の理由
聖徳太子が実在の人物ではないとする説の根源は、どこから出てきたのでしょうか。検証してみましょう。
肖像画は太子ではない!?
聖徳太子は、飛鳥時代の人物だとされています。日本最古の肖像画とされる太子の姿ですが、実はこれは聖徳太子ではないと言われています。根拠は、頭に被っている冠、そして身にまとっている衣服、持っているシャクも、太子の時代には存在しなかったものだというのです。大化の改新以降のもので、顔に描かれている髭も、あとから別な者が描き足したとされています。
十七条憲法は誰が作った!?
太子が作ったとされる十七条憲法も、果たして当時に作られたものかどうかを疑問視する点があります。役人の呼び方や内容に、当時にはない後世の考え方や意味が含まれているのです。あとから書かれたものなのか、書き足されたものなのか、日本書紀にしか十七条憲法の記述がないというのも不自然です。
三経義しょは誰が作った!?
聖徳太子がまとめたとする書ですが、全く同じ内容の本が中国に存在します。さらに、内容を見ると、後世のものの引用があり、太子が作ったとするのはあり得ないのです。それとも後世のものが太子のものを引用したのでしょうか。
隋書との食い違い
隋書によると、608年に日本に来日している随史ですが、会った王は男性だったとしています。当時の王は推古とされていますので、当然女性でなければいけません。推古が王であるとしているのは、後世に聖徳太子の関係で作られた資料でしかありません。聖徳太子がいなかったとするばかりか、もしかしたら推古や用明までもが架空の人物なのでしょうか。日本書紀ではじめて【聖徳太子】が登場します。どうしてそれほどまでの有能な聖人と呼ばれる人物が、100年近くも語られないでいたのでしょうか。
厩戸皇子の時代に摂政はない!?
厩戸皇子は、推古の摂政として活躍したと歴史上はなっていますが、その当時、摂政という官職はなかったとされています。